十七史百將傳卷三 前漢馮奉世 馮奉世(子明)

要約

馮奉世は字を子明、上党の潞の人である。郎となり武安の長に補されたが官を失い、《春秋》を学んで兵法を読み、前将軍の韓増の奏で軍司空令となって従軍し匈奴を撃った。

韓増が奉世を挙げ、節を持たせて諸国の客を送らせた。伊城で、莎車が漢の置いた莎車王万年と使者奚充国を殺し南道を劫かして叛いたと聞くと、速やかに撃たねば西域が危ういとして諸国の兵で攻め落とした。莎車王は自殺して諸国は平らぎ、威は西域に震った。宣帝は韓増の推挙を喜び、奉世は大宛で名馬象龍を得て帰った。

封ずる議で、丞相と将軍は爵土を加えよと言ったが、蕭望之だけは、制を矯めた者を封ずれば後の使者が争って兵を発すると言った。主上は望之に従って光禄大夫・水衡都尉とし、のち右将軍・典属国となった。

永光二年の秋、隴西の羌が反した。飢饉のさなかで答える者がなく、奉世は自ら討つと願い出、羌戎は武器が鋭利でないから四万人で一月で決すると言った。丞相らが一万人で足りると考えると、少なく屯させれば虜は畏れず、日を費やすのと一挙に決するのとでは利害は万倍も隔たると争ったが、二千人を増されただけだった。

奉世は一万二千騎で隴西に三か所に分かれて屯したが、前軍が降同阪に到ると二人の校尉が破られて殺された。三万六千人を増してこそ決すると上奏し、天子は六万余人を発し任千秋を奮武将軍として助けさせた。

主上は璽書で労い、かつ謫めた。敵に背いて逃げた汚名が立ち中国の恥となった、兵は凶器で、成敗は敵を測るのが審らかでないことに由る、奮武将軍の到着を待って羌虜を撃て、と。

十一月に並び進むと羌虜は大いに破られ、残りは塞の外へ走った。翌年二月、奉世は左将軍となり関内侯の爵を賜り、一年余りして病で卒した。爪牙の官に居ること前後十年、功名は趙充国に次いだ。

死後二年、甘延寿が郅支単于を誅して列侯に封ぜられると、杜欽が、奉世は制を矯める罪で侯となれなかったが、罪は郅支が軽く敵は莎車が多いのに奉世だけ録されないと訴えた。主上は先帝の時の事として録さなかった。

孫子はいう、将有能にして君掣肘せざれば勝つ、拙速は聞くも巧久は見ず、三軍の権を知らずに任を同じくすれば惑う、と。奉世が制を矯めても封を議され、利害万倍と言い、大将は要らぬとしたのが、これである。

年表

前漢の将、馮奉世(字は子明)。上党の潞の人で、良家の子として郎に選ばれ、昭帝の時に武安の長となった。官を失ったのち《春秋》と兵法を学び、前将軍の韓増に挙げられて軍司空令となる。使者として西域に出た折、南道・北道の兵一万五千を発して莎車を討ち、莎車王を自殺させて西域に威を震わせたが、蕭望之が矯制を難じたため封侯はならず、光禄大夫・水衡都尉、のち右将軍・典属国となった。隴西の羌の反乱では大軍の一挙投入を主張して容れられず苦戦したが、ついに羌虜を大破して左将軍・関内侯となり、まもなく病没した。趙充国に次ぐ宿将とされ、死後に杜欽がその前功を追訟した。

年表(1件)
  • 永光二年前42年秋に隴西の羌が反し、廷議で四万の兵による速戦を説くが容れられない

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