十七史百將傳卷三 後漢吳漢 吳漢(子顏)
要約
吳漢は字を子顏といい、南陽郡宛の人である。王莽の末に漁陽へ亡命し、太守の彭寵に、二郡の突騎を合わせて劉公に付き邯鄲を撃つべきだと説いた。属官が王郎に付こうとすると、光武の書を偽作して檄を回し、儒生に説かせて彭寵を動かした。広阿で光武に追いついて偏将軍となり、邯鄲を抜くと建策侯の号を賜った。
吳漢は質朴だったが、鄧禹が、勇猛で智謀があり諸将で及ぶ者はまれだと推した。大将軍として北へ行くと幽州牧の苗曾が徴発を妨げようとした。吳漢は二十騎で先行し、出迎えた苗曾を斬ってその軍を奪い、十郡の兵を徴発して光武と落ち合った。
更始の謝躬は副将の虜掠を光武に忌まれたが常に慰め安んじられ、自ら疑わなかった。謝躬が尤来を撃って大敗すると、光武は吳漢と岑彭にその城を襲わせた。吳漢は陳康を説かせて門を開かせ、帰ってきた謝躬を伏兵で捕らえて撃ち殺した。光武が即位すると大司馬となった。
建武二年、檀鄉の賊を破って降る者は十余万人。広楽で蘇茂を囲むと周建が十余万人で救いに来た。吳漢は落馬して膝を傷めたが、傷を包んで起き、牛を打ち殺して士に饗し、賊は勝てば譲らず敗れれば救わぬ群盗だ、今日こそ侯に封ぜられる時だと令した。翌朝進んで周建の軍を潰えさせ大いに破った。さらに劉永を睢陽に囲み、劉永が死ぬと二城は降った。
鬲県の五姓が守長を追い出して城に拠ると、吳漢は、そむかせたのは守長の罪だとして守長を捕らえさせ城中に詫びさせた。五姓は帰順し、諸将は、戦わずして城を下すのは我々の及ぶところではないと服した。冬には平原で富平・獲索を破った。
八年、西城に隗囂を囲んだ。帝は甲卒を帰せと命じたが吳漢らは兵を惜しんで手放さず、糧食は乏しく逃亡が多くなり、公孫述の救援が至ると退いて敗れた。
十一年春、公孫述の将を破って武陽を囲み、広都を抜いた。帝は堅く広都に拠れと戒めたが、吳漢は自ら成都に迫り、江の北岸に営して劉尚を江南に屯させた。帝は驚き、劉尚と営を別にしては急に互いに間に合わぬと責めた。詔書が届かぬうちに公孫述は謝豐・袁吉に十万を率いさせて両軍を分断した。吳漢は営を閉ざして三日出ず、旗を多く立て煙火を絶やさず、夜に枚を銜ませて劉尚と軍を合わせ、翌日、大いに破って謝豐と袁吉を斬った。広都に帰って自らを責めると、帝は宜しきを得たと答えた。これより八たび戦って八たび勝ち、公孫述が自ら出て戦うと高午が陣に駆け込んで刺し殺し、翌朝城は降った。
吳漢は戦陣が不利でも意気は平生のままで吏士を励ました。帝は、呉公はどっしりとして一つの敵国のようだと嘆じた。妻子が田地を買うと責めて兄弟や外戚に分け与えた。二十一年、薨じた。
孫子は「敵を殺すのは怒りである」と言う。吳漢は軍士を怒らせて周建の軍を破った。また「人の兵を屈服させるのに戦うのではない」と言う。守長を捕らえて五姓を降した。また「軍に糧食が無ければ滅びる」と言う。吳漢は糧食が少なくなって退き敗れた。また「我は集中し敵は分散する」と言う。劉尚と分かれて屯したのがこれである。
年表
後漢の大司馬、吳漢(字は子顏)。南陽郡宛の人で、王莽末に漁陽へ亡命し、太守の彭寵を説いて光武に付かせた。偏将軍・大将軍として幽州十郡の突騎を徴発し、謝躬を討ち、河北平定の先鋒を務めた。光武即位後は大司馬となり、檀鄉の賊・蘇茂・周建・劉永らを次々に破ったが、西城の隗囂攻めでは糧食に窮して退き敗れた。のち公孫述を討って成都を陥れ、天下平定を決した。質朴で沈着な人柄を光武に「一つの敵国のようだ」と評された。
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