十七史百將傳卷十 唐李晟 李晟(字良器)
要約
李晟は字を良器、洮州臨洮の人。十八歳で河西の王忠嗣に仕え、城壁に登って味方を多く殺傷する剽悍な酋長を矢一本で射殺し、忠嗣は背を撫でて万人を敵とする男だと言った。
大暦の初め、李抱玉が右軍将とした。吐蕃が靈州を侵し、兵五千を授けられようとすると、多さでは足りず謀では多すぎると辞して千人を請い、定秦堡を屠って慕容谷鍾を捕らえ、虜は關州の囲みを解いた。鹽倉で敗れた馬璘を救って合川郡王に封ぜられたが、璘は威名をうとんじて朝廷へ帰し、晟は右神策都將となった。
建中二年、田悅が反すると神策の先鋒として馬燧・李抱真と合し、楊朝光を斬り、洹水でも悅を大敗させた。抱真が兵を分けて邢を守らせたのを燧が怒ると、晟は邢と趙は境を接する、行き過ぎではないと説き、燧は悟った。晟が范陽を図れば武俊らは趙の囲みを棄てると建言すると、果たしてそうなった。
帝が奉天へ出られて召されたが、張孝忠が引き止めた。晟は臣は百舎を進んで一度息をつく覚悟であるべきだと語り、子の憑で婚約を結んで飛狐を越えた。神策行營節度使となって東渭橋に塁を構え、通る先々で民を侵さず、敗れ帰った劉德信を斬ってその兵を併せた。
李懷光は晟が単独で一方面を持つのを望まず、塁を連ねた。錦の裘と刺繍の帽で陣前に立つのをいさめられると、涇原の兵に姿を見せて心を奪うだけだと答えた。懷光が神策の賜与を削らせて兵を怨ませようと図ると、晟は公は元帥、軍政は専らになさってよいと言い、懷光は取りやめた。
懷光が朱泚と通じると、晟は屯を移すと令して東渭橋へ向かい、懷光は李建徽・陽惠元の兵を併呑して惠元は死んだ。帝は梁州へ狩され、渾瑊がかならず賊を破ると言うと安んじ、口詔で平章事に進められた。晟はいつわって懷光に誠意を示し、張或に畿内の賦を調達させ、渭橋は賊の首尾を断つ地だと令すると、兵は涙を流して従った。諸将が指揮を受けると懷光は恐れて河中へ奔った。家族が人質だと言われると、陛下はいずこにおられるのかと涙を流し、瑊が無事を告げに寄こした使者を斬った。間諜は食を与えて送り帰した。
諸将が外城を先にと言うと、晟は賊の重兵は禁苑にある、直接撃てば心臓を切り開くと言い、塁を光泰門へ移した。張庭芝らが戦いを求めると、天が誘い出したのだと喜んで討たせ、賊は白華へ走った。西軍を待つ議を退け、騎兵と歩兵を禁苑の北へ至らせ、塞がれた垣に諸将を叱ると史萬頃が柵を抜き、賊は潰えた。背後の伏兵には自ら百騎で駆け向かい、泚は西へ走って残党は降った。
晟は含元殿の外廷に屯し、五日は家へ音信を通じるなと令し、李齊運に住民を慰撫させ、賊の妓女や馬を取った高明曜・司馬伷を斬ってさらした。賊に脅された者は死罪にしないよう請うた。露布が梁に至ると帝は泣かれ、司徒・中書令とされた。三橋で還御を迎えた晟が、乗輿を再び狩に出でさせたのは臣の咎だと死を請うと、帝は立たせて邸宅を賜った。
渭橋で熒惑が歳星を守り、府中が速やかな用兵を賀したとき、晟は臣は難に死ぬべきだ、天道など知るものかと言い、のちに、人は用いても知らせることはできぬ、再び守れば戦わずして屈するのを懼れたのだと語った。
涇州は帥がしばしば代わったので、晟は粟を蓄えて塞下を充実させることを請い、風翔・隴右・涇原節度使、西平郡王となった。尹元正が河中へ入って懷光を諭すと、使命をいつわったと弾劾し、赦してはならぬ五つの理由を挙げて討伐を請うたが、許されなかった。
晟は河・隴が陥ちたのは将臣が部族を虐げて自ら棄てたのだと言い、家財を尽くして降る者を懐け、大酋の浪息曩に王号を与え、使者が来るたび錦の袍と金の帯で誇り示した。吐蕃の尚結贊は、唐の名将は李晟と馬燧・渾瑊だけだとして燧を通じて和を請い、盟で瑊を捕らえ燧を売ろうと謀った。晟は王佖を汧陽に伏せさせて中軍を撃ち、野詩良輔らに摧沙堡を抜かせた。和を乞う結贊に、戎狄に信は無いと奏したが、張延賞が兵権を長く持たせるなと言い、帝は惑わされた。
貞元三年、太尉・中書令に拝せられて兵権を解かれた。この年、瑊は平涼で劫かされ、燧は河東の任を解かれ、みな結贊の計のとおりになったという。丁瓊がひそかに事を図れと勧めると、不祥な言だと捕らえて奏聞した。九年に薨じた。下働きでも小さな善があればその姓名を記憶していた。
孫子はいう、その必ず救うところを攻める、将軍からは心を奪う、反間、士卒の耳目をくらます、人を択んで勢いに任せる、と。范陽を図る建言、錦の裘と刺繍の帽、間諜に食を与えて送り帰したこと、知らせられぬという言、姓名を記憶したことが、これである。
年表
洮州臨洮の人、字は良器。十八歳で王忠嗣に仕え、一矢で吐蕃の酋長を射殺して「万人の敵」と称された唐の名将である。吐蕃を破って合川郡王に封ぜられ、田悅討伐でも功を挙げた。朱泚の乱では東渭橋に孤軍を据えて李懷光の叛と対峙し、光泰門から禁苑を突いて長安を奪回、市を騒がせぬ軍紀で西平郡王・司徒に至った。のち吐蕃の尚結贊の離間と張延賞の讒により兵権を解かれ、貞元九年に薨じた。
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