三藩紀事本末金・王、江西を収める(金、王收江西)
要約
順治二年乙酉四月、英王は流賊を追って九江に至り、左夢庚が三十六営を率いて降った。英王が北帰する際、後営総兵の金声桓だけは江西の接収を功に代えたいと請うて許され、英王は降将の王体忠に命じて軍営を合わせ潯陽に屯させた。
六月、声桓が檄で招くと巡撫の曠昭は真っ先に逃げ、十九日に南昌へ入り、南康・九江も降った。建昌では王養正・夏万亨らが益王を輔けて挙兵していた。七月、体忠は撫州を下して建昌へ向かった。益王が頼んでいた保寧王が密かに体忠と通じ、城壁の後ろから火箭で象兵を傷つけたため益王軍は敗れ、城は破れて益王は殺された。養正ら五人も南昌へ送られ殺された。袁州では李時興が萍郷で縊れ、吉安を収めて万安に至った。
八月二十五日、声桓は偽って体忠を殺し、王得仁にその軍を統べさせた。益王宗室の永寧王慈炎は撫州・建昌を克復して進賢に屯したが、糧が尽きて退いた。声桓は得仁に命じてこれと争わせ、得仁は夜百騎で臨汝に至り、永寧王に帰属した曾亨応を一族ともども殺した。永寧王も追いつかれて捕えられ死んだ。
三年丙戌三月、寧州を破り、招きに従わなかった監軍の許文龍は死んだ。同月、吉安が再び失われた。四月には広信が破れ、巡撫の周定礽、詹兆恒ら多くがこれに死んだ。江西はことごとく平定されたが、ただ戇州だけは下らなかった。
年表
英王阿済格に従って北上するはずだった降将・金声桓が、江西接収を願い出て許され、王体忠らとともに南昌に入り、建昌の益王、湖東の王養正ら明側の抵抗を次々に破る。体忠を謀殺して王得仁にその軍を継がせ、永寧王朱慈炎の再挙も撃破。翌年には寧州・吉安・広信を落とし、周定礽・胡夢泰・詹兆恒ら多くの官民が殉じて、贛州を除く江西全域が平定されるまでの二年間を記す。
年表(2件)
- 順治二年乙酉(1645年)金声桓が江西接収を請い南昌に入城し、益王を建昌に破る
- 順治三年丙戌(1646年)寧州・吉安・広信を落とし、贛州を除く江西が平定される
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