三藩紀事本末魯藩、浙東に拠る(魯藩據浙東)
要約
順治二年乙酉六月、鄭遵謙が江上で我が招撫使を殺し、張国維・方逢年らと魯王以海を台州に迎え立て、王は紹興へ移った。国維らは大学士となり、方国安は厳州、張鵬翼は衢州を守った。七月に富陽、八月に於潛を復したが、十月の草橋門の戦いは大風雨で火砲弓矢を発せず兵を収めた。
折しも唐王が閩中で自立して詔を頒ち、王は台州へ戻る令を下したが、国維が興復をともに図るべきだと疏を馳せたので帰台は止まり、以後浙東と閩は水と火の間柄となった。
三年丙戌三月一日、国維・之仁は水師を統べて襲撃し、之仁の奮撃の間に国維が諸軍とともに江を渡って杭州を囲んだが、克たずに帰った。四月、貝勒は涸れた江を利して大砲で南営を撃ち、国安は閩へ投じようと五月に紹興へ走り、王を脅して南行させ、各営は潰えた。六月一日、大軍が江を渡ると余煌は水に投じた。国安は監国を献じて降ろうとしたが、監国は隙を得て海船へ逃れた。二十五日、義烏で国維は、天下の事を誤らせたのは文山・畳山だと言って池に投じ、多くの臣が続いた。朱大典は金華で一門焼死し、衢州は内応で破れて鵬翼と諸王が殺され、両浙は平定された。降った国安・逢年も八月に誅された。
王は舟山に納れられず廈門に至ったが、鄭芝竜がすでに降っていたので南澳へ走った。四年丁亥、鄭彩らに斌卿を討たせ、張肯堂と約した。五年戊子、劉中藻が福寧州と建寧・邵武・興化の三府および二十七県を復して軍声は振るった。六年己丑、王は舟山に還った。
八年辛卯、王師が福寧州を破ると復した州県は相次いで失われ、中藻は金屑を服して死んだ。王師が舟山に迫ると王は再び海に出、城が破れると肯堂は縊れ、李向中・呉鐘巒ら多くが死んだ。十一年甲午、鄭成功は王を金門に居らせたが、やがて礼を怠り、南澳へ向かおうとした王を海中に沈めさせた。
年表
鄭遵謙・張国維らが魯王以海を台州に迎えて紹興で監国とし、浙東に拠った十年間の経緯。閩の唐王と正朔を争って水火の仲となり、銭塘江をはさむ攻防の末、方国安の離反で江上の諸営が潰え、張国維・朱大典・余煌ら多数が殉死して両浙は平定される。魯王は海に浮かんで舟山に拠り、張肯堂・劉中藻らが福寧州などを一時恢復するが、順治八年に舟山が陥ちて一門・群臣が死に、王は金門に移されたのち鄭成功に海中へ沈められる。
年表(7件)
- 順治二年乙酉(1645年)張国維らが魯王を紹興に迎えて監国とし、閩の唐王と正朔を争う
- 順治三年丙戌(1646年)方国安の離反で江上の諸営が潰え、両浙が平定され王は海へ走る
- 順治四年丁亥(1647年)張名振らに舟山の王斌卿を討たせ、張肯堂と事を共にするを約す
- 順治五年戊子(1648年)劉中藻が福寧州以下三府二十七県を復し、軍の声望が大いに振るう
- 順治六年己丑(1649年)魯王が舟山に還り、張肯堂を東閣大学士とする
- 順治八年辛卯(1651年)福寧州・舟山が破れ、劉中藻・張肯堂ら群臣が相次いで殉じる
- 順治十一年甲午(1654年)鄭成功が王を金門に置いたのち、人をして海中に沈めさせる
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