三藩紀事本末瞿式耜、粤に殉ずる(瞿式耜殉粵)

要約

順治二年八月、瞿式耜は広西巡撫となり、焦璉と計り陳邦傅に桂林の靖江王亨嘉を攻めさせ破った。九月、唐王が死ぬと永明王を肇慶で監国させ、東閣大学士となった。十月、贛州陥落を聞いた王の梧州行きを争ったが聞かれず、十一月、唐王の弟聿𨮁が広州に拠って総督林佳鼎は敗死した。

四年、王師が広州を破って梧州に迫り、式耜は粤を去れば危ういと諫めたが、王は聞かず全州に奔り、桂林を守らせた。三月、大軍が文昌門に入り、焦璉が力戦し式耜も矢石の中に立った。陳邦彦の広州攻めで大軍は東へ向かい、式耜は臨桂伯となった。十一月、湖南から迫る大軍も何騰蛟と退けた。

五年二月、郝永忠らの掠奪の後、来襲した大軍は騰蛟が退けた。閏三月、李成棟の来帰で王が広州に請われたのを争って肇慶に駐まらせ、召されても国事を成棟に譲り桂林に留まった。十一月、永州・衡州・宝慶が回復すると、王に桂林へ還り楚に出るよう請うたが聞かれなかった。

六年、騰蛟が捕えられ成棟も敗死すると、王は式耜を留守として江・楚の軍馬を兼ねさせた。式耜は我が朝の招きに従わなかった。

七年正月、南雄・韶州が失われ、九月に全州が破れた。十一月、諸将は逃げて城中に一兵もなくなったが、式耜は端座し、総督張同敞と死を誓って捕えられ、閏十一月、風洞山の下で殺され、呉秇が葬った。

年表

順治二年に広西巡撫となった瞿式耜が、靖江王亨嘉の乱を平定し、丁魁楚とともに永明王を肇慶に奉じて監国させ、南明の擁戴の臣として桂林の留守を託されるまでと、その最期を記す。王がしばしば奔り逃れようとするのを諌めて粤を去らぬよう争い、焦璉とともに桂林を守って清軍を三たび退けたが、郝永忠・趙印選ら援軍の掠奪で城内は荒れ、李成棟の敗死ののち南明の支えは失われた。順治七年十一月、諸将が逃げ去った空城で端座したまま総督張同敞とともに捕えられ、閏十一月に風洞山の下で殺された。

年表(5件)

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