三藩紀事本末孫・李の敗走(孫、李奔北)

要約

九年二月、孔有徳が貴州に向かうと可望は内犯を謀り、李定国らに桂林を、劉文秀・白文選に成都を図らせた。五月、定国は靖州・沅州・武岡を下し、七月四日、桂林を陥した。降将陳邦傅父子は皮を剥がれ、有徳は自ら首を経った。十一月、敬謹親王尼堪は衡州を攻めて定国を敗走させたが、追撃中に伏兵に遇い陣中に殞った。

十年春、定国が召しに応じず可望は自ら追ったが、宝慶で我が軍に敗走した。我が軍は追わず武岡・宝慶の間を境とし、定国は広西に拠って高州・雷州・廉州を下した。

十二年、可望は常徳を犯して敗績し、定国は新会を攻めて克てなかった。

十三年春、平南王が定国の軍を破り、定国は南寧に奔って安陸に至り、王を奉じて雲南に趨いた。

十四年、可望が王師に降った。

十五年正月、楚・蜀・粤三路の兵に入黔が命じられた。四月、定国が王自奇らの乱を討つ間に楚兵は貴州を平定し、蜀兵は遵義を克した。十二月、蜀兵が烏撤に入ると文選は沾益に退き、粤兵は安隆に入り、定国は連敗して諸将も敗走し、馬宝らは降った。報が至ると王は永昌に走った。

十六年正月、大軍は雲南に入り、二月、文選は玉龍関で敗れて木邦に走った。定国は潞江に兵を伏せたが、盧桂生の来降で謀が洩れて敗れ、騰越を出て孟定に走り、王はすでに緬に入っていた。

年表

孫可望の内犯計画に始まり、李定国が桂林で孔有徳を、衡州で敬謹親王尼堪を破って一時勢いを得たものの、その後は新会・広東方面で敗れ続け、可望の清への降伏を経て、清の三路の兵が黔・滇へ迫る過程を記す。順治十五年には楚・蜀・粤の兵が貴州に集まり、定国の諸将も相次いで降った。翌年、清軍は雲南に入り、定国は潞江の伏兵計を洩らされて敗れ、騰越から孟定へ退いた。順治九年から順治十六年までの八年間。

年表(7件)

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