三藩紀事本末緬に檄して王を取り戻す(檄緬取王)
要約
順治十六年二月、李定国は潞江に敗れて騰越を出、王の入緬を知って深入りしなかった。木邦の白文選に辺境での再興を説いたが、文選は自ら緬に入って王を護ると譲らなかった。定国は猛緬で潰走兵を集め、孟連で賀九儀・張国用・趙得勝を得、元江の那嵩と再興を約した。孟艮を滅ぼす間に清軍は元江を破り、那嵩は自焚した。定国が二心ある九儀を殺すと国用・得勝は恨み、唐宗堯の横暴で阿瓦の消息も絶えた。
文選は略奪を重ねつつ阿瓦の新城を急襲した。緬王は三日待てば城を譲ると偽り、退く間に守りは固められ、再攻に敗れて十七年九月、孟艮で定国と合流した。
十八年四月、定国は阿瓦で王を求めたが拒まれた。緬人は木城を築いて迫り、五月、文選の横撃に大敗して新城に籠もった。渡河用の船は奇襲で焼かれ、九儀の死を恨む国用・得勝は文選を擁して北走した。定国の旧部下呉三省に会い、その言葉に張・趙の心も動いて竭薄に屯した。呉三桂は馬宝に文選を追わせ、文選は降って承恩公に封ぜられ、陣営にいた王の某妃は縊れた。
大軍が阿瓦に臨んで檄を発し、十二月三日、緬人は王を差し出した。康熙元年四月二十五日、王と妃と世子は雲南で最期を遂げた。皮熊は捕らえられても従わず、絶食十四日目に息絶えた。鄧凱は王の死後、普照寺で僧となった。
定国は車里・暹羅に兵を乞うたが、一営の人馬は尽く死んだ。六月に病み、二十七日没した。辺境で死のうとも降るなと嗣興・靳統武に言い残し、統武も没して嗣興は降った。
年表
潞江に敗れた李定国が孟定・孟連・孟艮を転々として兵を集め直し、白文選と合流して阿瓦を攻め、緬に永明王の引き渡しを迫った顛末を記す。賀九儀の誅殺が張国用・趙得勝の離心を招き、文選は彼らに連れられて北へ走って馬宝に説かれ、承恩公に封ぜられて清に降った。呉三桂の大軍が阿瓦に臨んで檄を発すると緬人は王を差し出し、康熙元年四月、王と妃・世子は雲南で最期を遂げた。定国は車里・暹羅に兵を乞うたが果たせず、降伏を戒める遺言を残して病没した。
年表(2件)
- 順治十六年己亥(1659年)春二月定国が潞江の敗後に孟艮へ移り、那嵩と再興を約すが元江は破られる
- 順治十八年辛丑(1661年)定国・文選が阿瓦を攻めるも造船を焼かれ、文選は馬宝に説かれて降る
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