三藩紀事本末鄭成功の乱(鄭成功之亂)
要約
鄭成功は南安の人、父芝竜が倭の婦人に生ませた子で、唐王に国姓を賜り成功と改めた。順治二年、忠孝伯に封ぜられ、福州が破れて母は兵乱に死んだ。降伏を諫めても聞かれず芝竜は北へ連れ去られ、成功は二艘で海に入り南澳で数千を集めた。
四年、永明王が肇慶で立つと永暦を奉じ、廈門・浯州は鄭彩・鄭聯が拠るため鼓浪嶼に泊まった。七月、海澄を攻めたが陥とせず、八月、鴻逵と泉州を囲んだ。五年、同安を取ったが退き、大軍は同安を屠った。六年、漳浦・雲霄を陥れ、広平公に封ぜられた。
七年、潮州に入って潮陽で我が軍を破り、両島に入ると、酔臥する鄭聯に一軍を貸せと迫ってその軍を併せ、聯を殺した。鄭彩は南へ逃げ、海賊は成功に従った。八年、南下した隙に馬得功が廈門を取り、帰った成功は逃げた守将鄭芝莞を誅した。この月、施琅が降り、逃がした蘇茂をも成功は恨んだ。
九年、甘輝が「老虎」王進を長泰に破り漳州の属邑は尽く陥ちた。七か月の漳州包囲で城中は食尽き、死者は七十余万に及んだ。十月、金固山の援軍に諸将が敗れて成功は海澄に退いた。十年、海澄の城壁は百余丈崩れたが、成功は胸壁に立ち、斧兵に登城者を斬らせて固山を退けた。
十一年、招撫に芝豹は応じたが成功は従わず、上陸して福州・興化を荒らした。芝竜は高俎に置かれ芝豹は寧固塔に送られた。十二月、漳州を侵すと劉国軒が降り十邑が陥ちた。十二年、舟山を破ったが、庶子王が閩に至ると島へ退いた。十三年、蘇茂を殺し、黄梧が降って海澄公となった。十月、庶子王が引き揚げると温州・台州を攻略した。十四年、寧徳を攻めて阿克襄を殺した。
十五年、延平郡王に進封され、金陵侵攻を議した。甲士十七万・水兵五万・馬五千・戦船八千・鉄人八千を率い、陽山の暴風で八千余が溺れ、幼子も死んだ。
十六年、焦山で瓜州攻めを議し、滾江竜を断って城を破り、鎮江へ渡った。銀山を奪って死戦し、管効忠は敗走、高謙は降った。甘輝の献策を容れず金陵に迫って岳廟山に屯し、余新が千騎を退けると敵を侮って備えを怠った。梁化鳳の急襲に新は捕らえられ、挟撃されて成功は大敗し、甘輝も殺された。九月、崇明を攻めて陥とせず、王起鳳は砲創で死んだ。十月、島に帰って甘輝を哭し、その言を悔いた。
十七年、達素らが両島を大捜索した。成功は海門で防いだが、令の行き渡らぬうち漳州の船が風に乗って迫り、周瑞・陳堯策が死んだ。東風が強まると北人は退いた。高崎では降を約した陳鵬の企てを陳蟒が見抜き、我が兵は泥沼に潰え、鵬は殺された。達素は福州で自殺した。
十八年、台湾を議した。もと紅夷が拠る地だが、何斌が富強を説くと成功は喜んで発し、三月、鹿耳門で水が増して戦艦は連なり進み、赤嵌城を陥れて王城を囲んだ。十月、芝竜は柴市で処刑され、在京の鄭氏一族も誅された。十二月、夾板船を焼き、土地のほかは汝らに帰すと告げるとオランダは降った。律法を定め学校を興し、台湾を安平鎮、赤嵌城を承天府と改めた。
康熙元年五月、成功は没した。乱を僭して十七年、享年三十九。六月、長子経が招討大将軍と称して嗣ぎ、招きに朝鮮の例を求めたが返答はなかった。台湾へ帰ると黄昭らが成功の弟襲を奉じて拒んだが、経が自ら射て昭を殺すと衆は甲を脱いだ。二年、永暦を称し、襲に通じた鄭泰を殺すと陳輝・何義らが降った。十月、王師はオランダと合して三路から出、馬得功は島で戦って敗死したが、全斌は潰えて銅山に退き、両島の民は塗炭に苦しんだ。三年、黄廷・全斌らが降り、四年、施琅の台湾攻めは成らなかった。
七年、慕天顔の招諭にも経は朝鮮の例を求めた。十一年、呉三桂が雲南・四川・貴州に拠って叛いた。十二年、耿精忠は福建に拠って叛き、范承謨を捕らえ、八府の鎮将は従った。兵器の傷んだ経を精忠は侮り、漳・泉二府を借りる求めを拒んで仲違いした。経が同安を取ると精忠は王進に泉州を守らせたが、福州に留められた王進功の子範錫が進を逐って経に附いた。七月、潮州の包囲に劉進忠は経に款を通じ、十月、劉国軒が王進を塗嶺に破り、十一月の北岡の戦いで潮州の囲みは解けた。
十三年正月、精忠と楓亭を境に講和した。五月、国軒は潮州に入り、急襲に死戦する何佑に続いて尚可喜の十万を敗走させた。六月、経は漳州を囲んだ。徳化公とされながら清に通じた黄梧の子芳度は、六か月の後に呉淑が門を開いて降ると井戸に投じて死に、王爵と忠勇の諡を贈られ十二代の世襲を許された。十四年、三桂の兵が肇慶に至り、経は韶州・恵州を得た。汀州が通じ、九月、王師が閩に入って精忠が降ると興化・邵武も通じ、経は八郡を有した。十五年、何佑が内通を疑って救わず趙得勝は死に、興化は陥ちた。漳州・泉州も潰えて経は島へ逃げ、八郡は失われた。
十六年、国軒は諸堡塁を陥れ、邀撃する諸将を破って海澄を囲んだ。郎廷相は捕らえられ、諸将は救わず、城は破れて段応挙・黄藍が死んだ。国軒は長泰・同安を陥れ泉州を囲んだが、官軍は諸県を回復し、李光地に導かれた一路など諸路が泉州を救った。国軒は漳州に退いて竜虎山に戦い、精忠が自ら督戦して突入し、十六営を破って首級四千、溺死者は万を数え、国軒は泳いで逃げた。十八年、蕭井寨で呉淑は圧死し、啓聖は修来館を開いて帰順を誘った。十九年、万正色らの舟師に林升らは戦わず潰え、啓聖は両島を覆し、経らは台湾へ逃げた。二十年六月、経は没し、母董氏は鄭氏の子でない克𡒉を殺して克塽を立て、啓聖は正色と施琅を提督に薦めた。
二十二年六月、官軍は銅山を出て澎湖を窺った。国軒は風櫃嶼に屯し、施琅は七隻で突入させて舟を焼いた。琅は八隊を三重に配して力戦し林升・丘輝らを斬り、国軒の兵万余が死んで戦艦二百余が焼けた。国軒は台湾に入り、克塽を奉じて七月、印綬と簿冊を軍門に納めて降った。克塽は年十五、成功から三世三十八年で僭偽は平定された。克塽は漢軍公、国軒は天津総兵となり、台湾府と三県が置かれた。二十九年、成功と経の喪は南安に帰葬された。寧靜王術桂は澎湖が破れると王印を克塽に授けて縊れ、妾の袁氏ら五人も従った。
年表
唐王から国姓を賜った鄭成功が、父芝竜の降伏に背いて海上に兵を挙げ、廈門・金門の両島を拠点として福建沿海を侵し、漳州包囲や南京侵攻を試みて敗れ、台湾に転じてオランダを降すまでを記す。成功の没後は子の経が嗣ぎ、耿精忠の叛乱に乗じて泉州・漳州など八郡を領有するが、姚啓聖・施琅らの攻勢で島を失い台湾へ退く。経の没後、施琅が澎湖で劉国軒を破り、康熙二十二年に克塽が降って三世三十八年の鄭氏は平定される。
年表(30件)
- 順治二年丙戌(1646年、原文は「二年」とするが干支より訂正すれば三年にあたる)三月忠孝伯に封ぜられ芝竜の降伏に背いて海に入り兵数千を集める
- 順治四年丁亥(1647年)永暦の年号を用い鴻逵と合して泉州を囲む
- 順治五年戊子(1648年)同安を攻め取るが救援を受けて退き清軍が同安を屠る
- 順治六年己丑(1649年)二月漳浦を侵し七月に永明王から広平公に封ぜられる
- 順治七年庚寅(1650年)鄭聯を襲って軍を併合し両島に拠って勢力を強める
- 順治八年辛卯(1651年)留守の芝莞を誅し施琅が清に帰順する
- 順治九年壬辰(1652年)正月漳州を七か月包囲するが援軍に敗れ海澄へ退く
- 順治十年癸巳(1653年、原文は「己巳」とするが年立てより訂正)五月海澄を守り大斧の兵で攻城を退けて包囲を解かせる
- 順治十一年甲午(1654年)招撫に従わず劉国軒の降で漳州十邑を陥とす
- 順治十二年乙未(1655年)正月舟山を破り馬信・張宏徳を招降するが定遠大将軍の来閩で島へ戻る
- 順治十三年丙申(1656年)正月蘇茂を殺し黄梧が清に降って海澄公となる
- 順治十四年丁酉(1657年)三月甘輝・周全斌に寧徳を攻めさせ満州将阿克襄を殺す
- 順治十五年戊戌(1658年)延平郡王に進封され大挙して金陵侵攻を議し浙江へ進む
- 順治十六年己亥(1659年)五月瓜州・鎮江を破るも南京城下で大敗し甘輝を失う
- 順治十七年庚子(1660年)五月達素らの両島捜索を退け陳鵬の内応を誅する
- 順治十八年辛丑(1661年)台湾へ渡り赤嵌城を陥としオランダを降して府県を置く
- 康熙元年壬寅(1662年)五月成功が三十九歳で没し子の経が嗣いで黄昭を討つ
- 康熙二年癸卯(1663年)鄭泰を殺し清軍とオランダの連合に両島を奪われる
- 康熙七年戊申(1668年)明珠らの招諭に朝鮮の例を求めたが返答がない
- 康熙十一年壬子(1672年)呉三桂が雲南・四川・貴州に拠って叛く
- 康熙十二年癸丑(1673年)耿精忠が福建に叛き経と仲違いして同安・泉州が経に附く
- 康熙十三年甲寅(1674年)正月精忠と講和し漳州を六か月囲んで黄芳度を死なせる
- 康熙十四年乙卯(1675年)二月汀州・興化・邵武が降り経は八郡の地を有する
- 康熙十五年丙辰(1676年)正月興化・漳州・泉州が潰え八郡を失って台湾へ退く
- 康熙十六年丁巳(1677年)二月国軒が海澄を陥とすも竜虎山で大敗し漳州へ退く
- 康熙十八年己未(1679年)十月呉淑が圧死し姚啓聖が修来館を設けて帰順を誘う
- 康熙十九年庚申(1680年)春正月万正色らの舟師に敗れ経と諸将は台湾へ逃れる
- 康熙二十年辛酉(1681年)六月経が没し克塽が立ち施琅が水路提督に推される
- 康熙二十二年癸亥(1683年)六月施琅が澎湖で国軒を破り克塽が降って鄭氏が平定される
- 康熙二十九年庚辰(1690年)成功と経の喪を南安に帰葬するよう命が下る
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