十七史百將傳卷二 趙趙奢 趙奢
要約
趙奢は趙の田部の吏で、賦税を治め府庫は満ちた。秦が韓を伐って閼與に陣したとき、廉頗も樂乘も救うのは難しいと答えたが、趙奢は、穴の中で闘う鼠のように将の勇なる方が勝つと答えて救いに向かった。
趙奢は邯鄲の三十里先で、軍事を諫める者は死罪とすると令して斥候を斬り、二十八日進まず塁を増し築いた。秦の間諜をもてなし帰らせると、秦の将は喜んだ。趙奢は一日一夜で駆けつけ、閼與の五十里手前に塁を築き、許歷の諫めで一万人を先に北山へ駆けつけさせた。秦兵は後から至り登れず、趙奢は秦軍を破って閼與の囲みを解き、馬服君の号を賜った。
孝成王の七年、秦と趙が長平で対峙した。廉頗が戦わないので、趙王は秦の間諜を信じて趙括を代えた。趙奢もかつて、趙軍を破る者は必ず趙括だと言っていた。趙括の母も、趙括は賜った金帛を蔵めて田や邸宅を買っていると諫めたが容れられず、連坐しないことだけ許された。
白起は偽って敗走して糧道を断ち、四十余日軍は飢えた。趙括は自ら戦って射殺され、数十万が降って生き埋めにされ、失った者は前後四十五万であった。明くる年、秦兵は邯鄲を一年余り囲み、楚・魏の救援で解け、母は誅されなかった。
五年後、燕が、趙の壮年は長平で失われたとする栗腹の策で撃つと、趙は廉頗を将として燕軍を闐で破り、栗腹を殺して燕を囲み、和を聞き入れ、廉頗を信平君に封じた。
悼襄王が樂乘を代わりとすると、廉頗は怒って樂乘を攻め、魏の大梁に亡命した。趙の使者に、廉頗は一食に米一斗・肉十斤を食らい甲を着け馬に乗って見せたが、郭開に金を与えられた使者は、坐るうち三度も大便をもらしたと報告し、趙王は召さなかった。楚が迎えたが廉頗は功なく、わしは趙人を用いたいと言い、壽春で死んだ。
孫子は、反間とは敵の間諜によってこれを用いる、と。趙奢が秦の間諜をもてなして帰らせたのが、これである。
年表
趙の田部の吏から将となった趙奢。国の賦税を治めて府庫を満たし、廉頗・樂乘が難しいとした閼與の救援を引き受けた。邯鄲を去ること三十里で二十八日動かず秦の間諜を欺き、一気に閼與へ駆けつけて北山を先取し、秦軍を大破した。惠文王から馬服君の号を賜り、廉頗・藺相如と並ぶ地位に立った。子の趙括を「兵を軽々しく語る」と評し、その言のとおり趙括は長平で大敗を招いた。
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