十七史百將傳卷二 前漢趙充國 趙充國(翁孫)

要約

趙充国は字を翁孫、隴西の上邽の人である。沈着で勇があり謀略に長け、兵法を学んで異民族の事情に通じていた。武帝のとき貳師将軍に従って匈奴に包囲されると、壮士百余人と囲みを破って敵陣を陥れ、貳師将軍が随って囲みを解いた。身の二十余の傷を武帝は自ら見て嘆じ、中郎に拝した。昭帝のとき西祁王を捕らえて後将軍となり、匈奴が十余万騎で侵入しようとすると四万騎で九郡に屯して、単于は去った。

義渠安国が諸羌を巡行したとき、先零の豪帥が湟水の北で牧畜したいと願い出て奏聞され、充国は安国が不恭であると弾劾した。羌人はこれを頼みに湟水を渡り、先零は諸羌の豪帥二百余人と仇を解いて盟った。上が問うと充国は、羌人が制しやすいのは種族ごとの勢いが一つにならぬからだが、征和五年には先零が匈奴に使いを通じており、匈奴が羌と結ぶのは一代のことでないから、まだそうならぬうちに備えよと答えた。

一か月余りのち、羌侯の狼何は果たして匈奴に兵を借り、鄯善・敦煌を撃って漢の道を断とうとした。充国は、秋に馬が肥えれば変事は必ず起こるとして備えよと説いた。両府はふたたび義渠安国を遣わしたが、安国は先零の諸豪帥三十余人を斬り、斬首千余級をあげた。降っていた諸羌や楊玉らは恐れ怒って叛き、塞を犯し長史を殺した。安国は浩亹で撃たれ、輜重を多く失って令居に還った。

充国は年七十余であった。誰を将とすべきかと問われて「老臣にまさる者はおりません」と答え、羌の見積もりを問われて「百聞は一見に如かず。兵事は遠くから見積もりがたいものです。臣は金城まで馳せ至り、方略を図に描いて奉ります」と言った。上は笑って「よろしい」と言った。

充国は金城に至ると、夜に三校を銜枚させて先に渡らせ、夜明けに渡り終えた。虜の騎が出入りしたが、誘い出しを恐れ、虜を撃つのは殄滅を期してのことで小利は貪るに足りぬとして撃つなと令した。落都では、虜が四望狭を塞いでいたら兵は入れなかったと語った。常に遠く斥候を出し、行けば戦いの備えをなし、とどまれば営壁を堅くし、先に計を立てて後に戦った。

子の趙昂は支えの兵として令居に至り、虜が輸送路を断つと奏聞して渡し場を通じさせた。罕・開の豪帥靡当兒の弟雕庫は先零の反を告げて人質とされていたが、充国は罪なしとして帰らせ、大軍は罪ある者を誅するのだから自ら区別せよと告げさせ、法を犯した者を斬れば大豪一人に銭四十万など差を設けて賜うと令した。

酒泉太守の辛武賢は、三十日分の糧で兵を分け、鮮水のほとりの罕・開を撃って家畜を奪い妻子を虜にし、冬にまた撃つべきだと上奏した。充国は、遠回りで千里になり三十日分の食を負えば追撃に向かず、虜が山林に退いて漢軍の糧道を断てば危ういと論じ、罕・開の過ちは捨て置いて先に先零を誅し、悔い改めれば赦して良吏に慰撫させるのが辺境を安んずる策だと述べた。

公卿はみな、先に罕・開を破らねば先零は図りえないと考えた。上は許延寿を強弩将軍、辛武賢を破羌将軍に拝し、書をもって充国を敕し責めた。年数をかけてわずかな勝ちを得ようとしている、一万二千人が罕羌を撃つから将軍も西へ並び進め、再び疑うな、と。

充国は、将は臨機の処置を守り通して国家を安んずるのだと考え、上書して罪を謝し兵の利害を陳べた。罕羌はまだ犯すところがなく、罕を先に撃つのは罪なき者を誅して二つの害に就くことである。兵法に「よく戦う者は人を招き寄せて人に招き寄せられない」とあり、兵馬を整えて到来を待つべきで、先に罕羌を撃てば先零は助けて約を堅くし、憂いは十年に及ぼう、と。

璽書が返され、充国の計に従うこととなった。先零の虜は気がゆるみ、大軍を望み見て輜重を棄てて湟水へ向かった。充国は、窮寇は迫れば死に物狂いになるとして徐々に追い立て、降伏と斬首五百余人、家畜十万余頭、車四千余両を鹵獲した。罕の地では村落を焼くのを禁じ、喜んだ豪帥の靡忘がもとの地に還ることを願うと返答を待たず帰らせ、争う護軍以下には、文書を取りつくろって身を守るだけだと言った。まもなく璽書が靡忘を贖罪と令じ、罕は兵を煩わさず降った。

充国が病むと、上は破羌将軍を副とし十二月に先零を撃てと書を賜った。降った羌は一万余人になり、充国は彼らが必ず崩れると見て騎兵を罷め、屯田してその疲弊を待とうとした。進兵の璽書が届くと、昂は恐れて食客を遣わし、上意に合わなければ将軍ご自身すら保てないと諫めた。充国は嘆じ、辛武賢の先遣と穀の買い入れという二つの策を失って羌人は逆らったのだ、わたしは死をもって守り通す、明主には忠言を申し上げてよいのだと言った。

そこで屯田の奏を奉り、羌の虜は計で破るのはたやすく兵で砕くのは難しいこと、臨羌から浩亹まで未墾の土地が多いことを挙げ、騎兵を罷めて一万余人を要害の地に屯させ、一人に二十畝を割り当てたいと請うた。上が決着の時期を問うと、帝王の兵は全きをもって勝ちを取るから謀を貴んで戦を賤しみ、まず勝つべからざる態勢を作って敵を待つのだと述べ、田によって穀を得、虜を肥饒の地から遠ざけ、費えと徭役を省き坐したまま必勝を得るなど、田を留めれば十二の便を得、兵を出せば十二の利を失うと言った。

上がさらに時期を問うと、充国は、先零羌の精兵は七、八千人に過ぎず分散して飢え凍え、罕・開・莫須も叛き帰る者が絶えないから、破れ崩れるのは遠くとも来春だと答え、坐したまま勝つ道を捨てて危険に乗ずるのは蛮夷に示すやり方ではないと述べた。

奏が上るたび公卿に下され、是とする者ははじめ十のうち三、中ごろには五、最後には八となり、さきに不便と言った者は詰問されて服し、丞相の魏相もその計は用いるに足ると認めた。上は両将軍の出撃の議も容れ、両将軍と昂に出撃させた。強弩将軍は四千余人を降し、破羌将軍は斬首二千級、昂も二千余級、充国が降らせた者はさらに五千余人で、詔して兵を罷め、充国だけが屯田にとどまった。

翌年、充国は屯田の兵を罷めることを奏請して還った。浩星賜が功を二将軍に帰せと説いたが、充国は、兵の勢いは国の大事で後世の法とすべきものだ、老臣が明言しないまま死んだなら誰がこれを言うだろうかと言い、考えのままに答えた。上はその計を然りとし、辛武賢を酒泉太守に帰らせ、充国はまた後将軍・衛尉となった。その秋、羌の若零らが先零の大豪猶非・楊玉の首を斬って四千余人を率いて降り、漢は若零らを王や侯とし、金城属国を置いて住まわせた。

護羌校尉を挙げさせたとき、四府が辛武賢の末弟の湯を挙げると、充国は病を押して起き、湯は酒の上で気ままだから蛮夷を司らせてはならず兄の臨衆がよいと奏した。詔で臨衆が代わって用いられたが病で免ぜられ、五府が湯を挙げた。湯は酒で羌人を酔わせ、羌人は叛いて充国の言のとおりになった。朝廷に四夷の大議があるたび兵の謀に参与させられ、先に功徳により霍光らと列を同じくし未央宮に肖像を画かれ、年八十六で薨じた。

成帝のとき西羌に警報があり、上は将帥の臣を思って充国を美とし、楊雄に図画に即して頌させた。先零が漢の西の疆を侵し、漢は後将軍に命じて六師を整え討ち震わせた。営平は節を守り封章を奏し、敵を料って勝ちを制し、威と謀とに並ぶものが無かった。ついに西戎に克って師を京に還し、鬼方は賓服した。漢の中興には充国が武をなし、周の宣王の方・虎の後を継いだ、と。

孫子はいう、変化に因って勝つを神と謂う、備えあるは勝つ、敵の利を取るは貨なり、君が必ず戦えといっても戦わず、人を招き招かれず、威加われば交わり合わず、窮寇には迫るな、飽をもって飢を待つ、進んでは名を求めず、と。充国が兵は遠く見積もりがたいと言い、斥候を遠く出し、銭で羌を誘い、臨機の処置を守り、戦士を鍛えて待ち、先零を攻めて罕羌が服し、先零をゆるやかに追い、三百万斛の穀を買えば羌は動けぬと言い、死をもって守り通したのが、これである。

年表

字は翁孫、隴西上邽の人(?–年八十六で薨去)。武帝のとき假司馬として貳師将軍に従い、囲みを破って身に二十余の傷を受け、中郎に拝された。昭帝のとき匈奴を撃って西祁王を捕らえ後将軍に抜擢される。宣帝のとき七十余歳で「百聞は一見に如かず」と言って羌征討を請い、先零を先に討って罕・開を招き降す策を貫き、出兵を求める詔に抗して屯田の「十二便」を上奏し、ついに朝議を動かして戦わずして羌を瓦解させた。のち後将軍・衛尉に復し、未央宮に肖像を画かれた。

年表(1件)
  • 征和五年前88年先零の豪帥封煎らが匈奴に使いを通じたと、のちの上奏で羌と匈奴の連携を論ずる

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