十七史百將傳卷四 後漢張奐 張奐(然明)

要約

張奐は字を然明といい、敦煌酒泉の人である。安定屬國都尉となった当初、南匈奴の伯德ら七千余人が美稷を寇し東羌も応じたが、壁塁の二百人ばかりで長城に屯し、王衛を遣わして東羌を招き、南匈奴と往き来できなくした。諸豪は和親して薁鞬らを破り、伯德は降った。

羌の豪帥が馬を、先零の酋長が金の鐻を贈ると、張奐は諸羌の前で酒を地に注ぎ、馬が羊ほど多くとも厩に入れず、金が粟ほど多くとも懐に入れぬと言って返した。

使匈奴中郎將に遷ると休屠各と烏桓が反叛して兵衆は逃げ去ろうとしたが、張奐は帷の中で講じ誦じ、軍士は安んじた。烏桓と通じて屠各の渠帥を斬らせ、諸胡は降った。

鮮卑を撃って度遼將軍に遷り幽・並は静かであったが、大司農に召されると鮮卑は南匈奴・烏桓を招いて九郡を寇した。あらためて護匈奴中郎將として三州を督させると二十万口が還り降り、首謀者だけを誅した。

王寓が薦挙を求めると張奐だけが拒み、党人の罪に陥れられて禁錮された。若くして、大丈夫は辺境で功を立てるべきだと語り、はたして勲名があった。董卓の贈る縑百匹は受け取らず、光和四年、七十八で卒した。

孫子はいう、威加われば交わり合わず、廉潔は辱めらる、軍騒がしきは将軽し、と。奐が羌を通わせず薁鞬を敗り、財貨に動かず、帷に坐して衆心を安んじたのがこれ。

年表

敦煌酒泉の人、張奐(字は然明、?–181年)。賢良に挙げられて議郎となり、安定屬國都尉として南匈奴の薁鞬台耆・且渠伯德らの寇を、わずかな兵で東羌を誘って分断し破った。羌の献じた馬と金をすべて返した清廉で知られ、使匈奴中郎將・度遼將軍として休屠各・烏桓の叛乱や鮮卑の侵入に当たった後漢末の辺境の名将。のち幽・並・涼三州を督して二十万口の帰降を受けたが、宦官出身の司隸校尉王寓の求めを拒んだために党人として禁錮され、郷里に帰った。董卓の贈り物も受けなかった。

年表(5件)
  • 延熹元年158年南單于を率いて辺境を寇した鮮卑を撃ち、斬首数百級を挙げる
  • 延熹九年春166年召されて大司農に拝せられ、度遼將軍の任を離れる
  • 延熹九年166年鮮卑が南匈奴・烏桓を招き結んで辺境沿いの九郡を寇掠する
  • 延熹九年166年護匈奴中郎將に拝せられ幽・並・涼三州と度遼・烏桓二営を督し、二十万口の帰降を受ける
  • 光和四年181年卒する。年は七十八

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