十七史百將傳卷四 後漢皇甫規 皇甫規(威明)

要約

皇甫規は字を威明といい、安定郡朝那(底本は朝歌)の人である。永和年間、西羌が三輔を寇して安定を囲み、征西將軍の馬賢は克てなかった。皇甫規は布衣の身で、馬賢が軍事をいたわらないのを見てその敗北を上書し、はたして馬賢は討ち取られた。郡の将は功曹として甲士八百を率いさせ、賊は退いた。

羌が隴西を攻め焼くと、皇甫規は上疏し、羌戎が叛くのは辺境の将が安撫と統御を誤るためだと述べ、兵五千あれば趙沖と相なせると請うたが、桓帝は用いなかった。

泰山の賊の叔孫無忌が郡県を乱すと、公車が召して泰山太守とし、寇賊は平らげられた。

延熹年間、羌の零吾らが関中を寇すると、皇甫規はふたたび上疏し、三公は中郎將に挙げた。零吾らを破ると先零の諸種は十余万が降った。その騎兵で隴右を討ったが道路は絶え、疫病で十のうち三、四が死んだ。皇甫規は自ら庵廬に入って将士を巡視し、三軍は感じて悦んだ。東羌は降伏を乞い、涼州はふたたび通じた。

州界に到ると、孫雋の収賄や李翕らが降った羌を殺したことを条奏し、十余万口が降った。

度遼將軍となって数か月、張奐を薦めて自らに代え、なお用いられるならその副となりたいと願った。朝廷は従い、使匈奴中郎將、ついで護羌校尉となった。熹平三年、病で召還され、到着せぬうちに卒した。

孫子はいう、良将は警む、名を求めず、と。規が馬賢の敗を知り、張奐を挙げ自らに代えたのがこれ。

年表

安定郡朝那の人、皇甫規(字は威明、?–174年)。永和年間、布衣の身で征西將軍馬賢の敗北を予言して上書し、的中したことで郡の功曹に取り立てられ、甲士八百を率いて羌を退けた。のちしばしば上疏して羌討伐を願い出たが桓帝に用いられず、泰山太守として叔孫無忌の賊を平らげた。延熹の羌乱では中郎將として零吾らを破り、十余万の帰降を得て涼州の道を再び通じさせた。州界の不正な官を弾劾して羌人の信を得、度遼將軍となるや張奐を薦めて自らその副に退いた清廉の将。使匈奴中郎將・護羌校尉を歴任し、病により召還される途上で没した。

年表(1件)

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