十七史百將傳卷六 吳呂蒙 呂蒙

要約

呂蒙は字を子明といい、汝南の富陂の人である。若くして南へ渡り、姉の夫の鄧當に身を寄せ、十五、六でひそかに従って賊を撃ち、虎穴に入らずんば虎の子は得られぬと母に言った。侮って辱めた役人を殺して出奔したが、孫策は並外れた者と見て側近くに置いた。

鄧當が死ぬと張昭が後任に薦めて別部司馬となった。権が兵の少ない諸将を併せようとすると、蒙は借りをして衣と脚絆をあつらえ、閲兵の隊列は赫々として、権は悦んで兵を増やした。

黄祖征伐では前鋒を率いて都督の陳就の首を梟し、祖は城を捨てて逃げて捕えられ、権は蒙を横野中郎将とした。

帰順した襲肅の兵を周瑜が加えようとすると、蒙は奪うべきでないと言った。甘寧が夷陵で曹仁に囲まれると、蒙は柴で険路を断てば賊の馬が得られると説き、敵は馬を捨てて歩き、馬三百匹を獲た。曹仁は退き、南郡を占拠して荊州を鎮め定めた。

陸口へ赴く魯肅が立ち寄ると、蒙は関羽への備えを問い、その場で処置しようという答えに、五つの策を示した。魯肅は背を撫でて、才略がここまでとは知らなかったと言い、蒙の母に拝礼して友誼を結んだ。

成當・宋定・徐顧の兵を併されると、子弟が幼くとも家を廃してはならないと固辞し、師を選んだ。

濡須では奇計を進め、水口を挟んで塢を築かせて曹公を退けた。曹公が朱光に皖で稲田を開かせると、実れば兵が増えると説き、権は自ら皖を征した。蒙は甘寧を先頭に立たせ、みずから鼓を打ち、朝食の時刻には破って廬江太守となった。

廬陵の賊を諸将が捕えられずにいると、権は蒙に討たせ、蒙は首謀者を誅して残りを平民に戻した。

権が三郡を取らせると二郡は帰服し、零陵太守の郝普だけが降らなかった。権が零陵を捨てて魯肅を助けよと命じると、蒙はこれを秘し、郝普の旧友の鄧元之に、劉備も関羽も余力がなく、郝普は望み無き救援を待つ魚だと語らせた。郝普は懼れて聴き入れ、蒙は四将に城門を押さえさせ、郝普の手を執って船に下り、書を見せて笑った。その日のうちに益陽へ赴いた。

曹公がまた濡須に出ると、蒙は督として前の塢に拠り、強弩一万張で防ぎ、陣屋を構え終えぬ前鋒を破った。

魯肅が卒すると陸口に駐屯して人馬一万余を属され、関羽と境を接した。蒙は、関羽は併呑の心を持ち呉の上流に居て久しくは難いとし、壮健なうちに図るべきだと策を陳べ、権は容れた。表向きは好誼を結び、関羽が樊を討って備えを留めると、病を名目に還れば関羽は兵を襄陽へ向かわせ、その空虚を襲えば南郡は落とせると上疏した。関羽は信じて兵を引き払い、湘関の米を擅に取ったので、権は出発し、まず蒙を先発させた。

蒙は尋陽で精兵を船に伏せ、白衣の者に櫓を漕がせて昼夜兼行し、江辺の見張りを捕縛した。南郡に到ると士仁・糜芳が降り、蒙は関羽と将士の家族を慰撫し、民家の笠で鎧を覆った同郷の兵を涙して斬った。老人を見舞わせ、府庫は封印して権を待った。関羽の使者に城中を巡らせると、還った者は家が無事だと知り、士も吏も戦う気を失った。関羽は麥城へ走り、漳鄉で兵衆に捨てられ、朱然・潘璋に道を断たれて父子ともに捕えられ、荊州は平定された。

蒙は南郡太守・孱陵侯となった。病むと権は内殿に置いて看護を尽くしたが、年四十二で卒した。自分を上申した蔡遺を恨まず豫章太守の後任に薦め、粗暴な甘寧も庇って、権は厚く遇しその働きを得た。

孫権は、公瑾は孟徳を破って荊州を開拓し魯肅を招き寄せた、魯肅は降伏論に反駁したと言い、子明は長じて籌略が公瑾に次ぎ、関羽を図り取ったのは魯肅に勝ると評した。

孫子はいう、敵を料って勝を制す、因間は郷人を用う、備えなきを攻む、法令は孰れか行わる、と。蒙が険路を断って馬を得、鄧元之で郝普を降し、南郡を襲い、同郷の者を斬ったのがこれ。

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