十七史百將傳卷六 晉馬隆 馬隆(字は孝興)

要約

馬隆は字を孝興、東平の平陸の人で、若くして智勇があった。才力の傑出した者を求める詔に、兗州は馬隆を推挙し、司馬督に遷った。

涼州刺史の楊欣が羌戎との和を失うと馬隆は必ず敗れると述べ、楊欣は滅ぼされて河西は断絶した。帝が、誰かこの虜を討つ者はないかと嘆じると、馬隆だけが進み出て勇士三千人を募りたいと請い、武威太守とされた。弩と弓を条件に三千五百人を得、武庫令と争って三年分の軍資を給された。

西へ温水を渡ると樹機能らは険に拠り、伏兵で後ろを断った。馬隆は八陣図に依って扁箱車を作り、狭い路では木屋を車に据えて前進し、道に磁石を積むと鉄の鎧の賊は進めず、賊は神だと思った。転戦千里、殺傷は千。音信が絶えて滅んだと疑われたが、使者が到り宣威將軍とされた。武威では猝拔韓らが一万余落を率いて降り、樹機能を斬って涼州は平定され、楊珧の議で將士に爵と秩が賜わった。

太康の初め、西平太守として屯し、険に拠る成奚には軍士に農具を背負わせて田を耕す者のように見せ、備えの無いのに乗じて破り、在任中は寇が無かった。東羌校尉となって威信は隴右に振るったが、嚴舒が誹って代わり、氐や羌が結んだので嚴舒は免ぜられ、職に復し、官にあって死んだ。

孫子はいう、兵に選鋒なきを北という、墨縄を踏み敵に随う、兵は詐をもって立つ、と。隆が勇士三千を募り、八陣の法で前進し、偽って田を耕させて破ったのがこれ。

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