十七史百將傳卷六 晉王濬 王濬(字士治)

要約

王濬は字を士治、弘農の湖の人。宅の門前の路を数十歩に広げ、長い戟や幡旗を容れたいのだと言い、笑う者には燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんやと答えた。羊祜は、奢侈だという評に、濬には大才があり望みを遂げさせれば必ず用いられると言った。

巴郡太守となると、兵士が労役に苦しんで男子を養わなかったので徭課を寛くし、生き長らえさせた者は数千人にのぼった。益州刺史に遷って舟艦を修め、二千余人を容れる連舫に木の城と樓櫓を起こし、鷁の首や怪獸を画いて江神を懼れさせた。削り屑が流れ下るのを吳彥が孫皓に呈して建平の兵を増すよう説いたが皓は従わなかった。

朝議が伐吳を諫めると、濬は、船を作って七年で日ごとに朽ち、自分も年七十だ、事の機を失うなと上疏した。帝は容れて諸方に節度を命じた。巴郡で命を全うさせた者たちは軍に供し、その父母は、王府君がお前を生かしてくださったのだから死を惜しむなと戒めた。

吳人は江の要害に鉄の鎖と鉄の錐を置いていたが、羊祜が間諜から有様を知っていた。濬は大筏を作り草の人形に甲を着せて先に行かせると錐は筏に着いて去り、麻油を灌いだ火炬で鎖を焼き断った。蜀を発ってから兵は刃を血に染めず、三山に至ると張象の舟軍一万は旗を望んで降り、濬が石頭に入ると皓は肉袒し面縛して壘門に至った。濬は縛を解いて京師へ送り、府庫を封じ、軍には私するものが無かった。

詔書は濬に杜預の、秣陵では王渾の節度を受けさせていたが、預は、威名が著れた者に制を受けさせるべきでないとして秣陵を取るよう書を与えた。王渾が立ち寄れと求めると濬は風が利いて泊まれぬと報じて進み、渾は忿って詔に違ったと表した。濬は、流れの中で船を回すよすがが無かった、社稷に利があるなら死生を賭けるのが臣の道だと弁じ、渾らの露布こそ斬級を万と数えて陛下を欺いていると表した。忿懣に堪えず退出したが、帝はそのつど恕した。

范通が、角巾で私第にこもり聖主の德と群帥の力だと言えば王渾も愧じようと諫めると、濬は、鄧艾の事を懼れて言わずにはいられなかった、これがわしの偏りだと答えた。卒したとき八十であった。

孫子はいう、国を毀つも久しきに非ず、上下欲を同じくする者は勝つ、と。三山に至り孫皓を降し、杜預が節度を施さなかったのがこれ。

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