十七史百將傳卷八 隋長孫晟 長孫晟(字は季晟)
要約
長孫晟は字を季晟という。高祖だけが、後の名将はこの子ではないかと言った。宣帝のとき突厥の攝圖に千金公主を送ると、攝圖は晟だけを愛して年を終えるまで留めた。二羽の雕を二本の箭で射させると一発で二羽を貫いた。攝圖に忌まれた弟の處羅侯はひそかに晟と盟った。晟は山川の形勢と部衆の強弱を知り、高祖にその状を白した。
開皇元年、攝圖は臨渝鎮を陥して南侵を謀り、高祖は懼れて長城を修築した。晟は、攝圖・玷厥・阿波・突利らは内に猜忌を懐き、力で征するより離間がたやすいとして上書した。玷厥に使いを通じ阿波を説けば攝圖は右地を防ぎ、處羅を引き入れ奚・霫と連ねれば左方を備える。十数年の後にその釁に乗じて討てば一挙にその国を空しくできる、と。上は感嘆してみな納れ用いた。
元暉を玷厥に使いさせ、その使いを攝圖の使いの上に居らせると、反間は行なわれて互いに猜み貳を抱いた。晟は黃龍道に出て奚・霫・契丹らを郷導とし、處羅侯を内附させた。二年、攝圖は四十万騎で入り達奚長儒の軍を破ったが、玷厥は従わず去った。晟はまた染干に、鐵勒らが牙を襲おうとしていると偽り告げさせ、攝圖は塞を出た。
数年後、阿波が涼州で敗北した。晟は、攝圖は必ず罪を阿波に帰して北牙を滅ぼすであろうと言わせ、阿波の使いには、なぜ天子に依り附き達頭と結んで強くならぬのかと言った。阿波は納れて塞の上に留まり入朝させた。
攝圖が死ぬと、晟は節を持たされ處羅侯を莫何可汗、雍閭を葉護可汗に拝した。處羅侯の子の染干が婚を乞うたので安義公主を妻わせ南へ徙らせた。雍閭の抄略も染干が奏して先に備えがあった。晟は雍閭の牙に災変が続くのを知り、突厥を討つことを請うた。都速らが染干に帰して男女一万余口に至り、晟が安置すると突厥は悦び附いた。染干を啟民可汗として射を賜わったとき、晟は放てばみな鹿に入って啟民の朋が勝ち、鳶にも十発とも中てた。朔州に大利城を築いて染干を処らせ、秦川行軍総管として達頭を討った。突厥は泉を飲むからたやすく毒を行なえると上流に薬を入れると達頭の人馬は多く死んで夜に遁れ、晟は追って千余級を斬った。
仁壽元年、晟は磧北の赤い気は兵書にいう灑血で、その下の国は必ず亡びる、匈奴を滅ぼすなら今日だと奏した。楊素を元帥、晟を受降使者として北伐させ、達頭の衆は潰えて吐谷渾へ奔った。晟は病で卒した。後に突厥が雁門を囲むと帝は晟がいたならと嘆じた。
孫子はいう、親しんでいればこれを離せ、と。攝圖を離間したのがこれ。またいう、餌の兵は食らうことなかれ、と。毒薬で達頭の人馬が多く死んだのがこれ。
年表
隋の将、長孫晟(字は季晟)。弾(はじき弓)と射を得意とし、武芸と奇略で高祖に見込まれた人物である。北周の宣帝のとき千金公主を突厥の攝圖のもとへ送り届ける使いに立ち、その地に長く留まって山川の形勢と部衆の強弱を知り尽くした。隋の建国後は、攝圖・玷厥・阿波・突利らが互いに猜疑を抱く突厥の内情を突き、「遠交近攻・離強合弱」の離間策を上書して採用され、玷厥・阿波・處羅侯・染干を次々に隋の側へ引き寄せた。達頭討伐では水の上流に毒を入れて敵の人馬を斃し、突厥に「その弓の音は霹靂、その馬は閃電」と畏れられた。武力ではなく謀略によって突厥を分裂させた、隋の対北方政策の中心人物と位置づけられる。
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