十七史百將傳卷八 唐尉遲恭 尉遲恭(字は敬德)
要約
尉遲敬德は名を恭といい、朔州善陽の人である。大業の末、宋金剛とともに永安王孝基を襲い破った。武德二年、金剛が突厥に奔ると残りの衆で介休を守り、諭されて降った。尋相が叛くと諸将は恭を囚えたが、秦王は叛くなら尋相に後れまいと釈した。
この日、榆窠の狩りで世充が来て戦い、單雄信が王に趨り寄ると、恭は馬を躍らせ刺し墜とし、王を翼けて出して大いに敗り、王は報いがこう速いとはと顧みた。
竇建德が板諸に営すると、王は李績らを伏兵とし、恭に槊を執らせて塁を略め大呼して師を致した。敵が出ると引き却き、衆が進むと伏兵が発して大いに破り、馬を夸る世充の兄の子の琬も禽にした。
隱太子が金の皿一車で招くと、恭は秦王が自分を生かしたのだと辞退した。巢王が壮士に刺させようとしたが門を開いて臥しており賊は入らず、高祖への譖りも王が争い免れた。
隱太子と巢王の計が急になると、恭は長孫無忌とともに、決せねば社稷は危ういと申し上げた。王が同気ゆえ忍びないと言うと、恭は、聞き入れられぬなら亡れ去ると言い、侯君集らと勧めて計は定まった。房玄齡らが召しに応じないと王は佩刀を授け、恭が往いて諭し連れ戻した。隱太子が死ぬと、恭は騎七十で玄武門に趨り、王を窘しめる元吉を叱して射殺した。宮府の兵も二つの首を示すと去った。海池の帝には、秦王が乱を作した太子らを誅したと答え、帝は悦んだ。王は皇太子となり、坐する百余家も、支党を窮めるのは安きの道でないという恭の言で原された。功は第一とされた。
慶善宮の宴で上に班なる者を咎め、宥めた任城王道宗の目を撃った。太宗は、韓・彭が夷戮されたのは高祖の過ちでないと知った、自ら整え飭れと責め、恭は謝した。
高麗を討とうとした帝に、乗輿が遼に至れば両京は空虚となり玄感の変を恐れると上言したが納れられなかった。顯慶三年、卒した。
恭は槊を避けるに善く、賊の槊を奪い返し刺した。元吉は三たび槊を失い服した。
孫子はいう、遠くにありて人を挑む者は人の進むを欲する、と。大呼して師を致し建德を破ったのが、これである。
年表
唐の将、尉遲恭(字は敬德。字をもって行われた)。朔州善陽の人である。隋末には宋金剛に従って唐軍を破ったが、金剛の敗走後に介休を挙げて秦王(太宗)に降り、疑われて囚われたところを秦王に釈されて厚遇された。榆窠の狩りで王世充の急襲に遭ったとき單雄信を刺して秦王を救い出し、竇建德との戦いでは誘い出しの役を務め、王琬を三騎で捕らえるなどの功を立てた。隱太子の招きを金の贈り物ごと退けて秦王への忠を守り、玄武門の変では決起を強く勧めて元吉を射殺し、高祖の御前に赴いて事態を収め、功を論じて第一とされた。のちに宴席での無礼を太宗に戒められ、高麗討伐には反対を上言した。唐初の功臣を代表する猛将である。
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