十七史百將傳卷九 唐·蘇定方 蘇烈(字は定方)

要約

蘇烈は字を定方、冀州武邑の人。十五で父の蘇邕に従って戦い、父の死後その衆を領して張金稱・楊公卿を破り、賊は境内に留まらなくなった。

貞觀の初め、李靖に従って頡利を磧口に襲い、霧に乗じて前鋒二百騎で進み、霧が晴れて牙帳が見えると馳せて数十百人を殺した。頡利は遁れ、残党は降った。

程知節に従って賀魯を征し、鷹娑川で砂塵を見て精騎五百で賊営に突き込み千余人を殺した。王文度は功を嫉んで詔を偽り軍を収めたので馬は痩せ卒は疲れた。降った胡人を殺して財貨を取れという王文度には、それでは自ら賊をなすだけだと言い、財を分けても一つも取らなかった。帰った程知節らは死罪に当てられ、赦されて庶民となった。

伊麗道行軍大總管として再び賀魯を征し、曳咥河で十姓十万に包まれると、歩卒に高所で槊を並べさせ、自ら精騎で北の原に陣し、乱れに乗じ数万級を斬った。大雪にも足を止めず、狩りに出ようとした賀魯の牙帳下の数万人を破った。賀魯は縛られて帰り、唐の州縣は西の海に極まり、左驍衛大將軍・邢國公に拜せられた。

都曼が叛くと昼夜三百里を馳せて襲い、都曼は大敗し面縛して降った。定方は死なせぬと約したとして助命を請い、帝は卿のために信を全うしようと宥した。

神丘道大總管として百濟を討ち、熊津口で破って都城に迫り、義慈と太子の隆は北へ走った。自立した泰も、文思が城を下って人心が離れると門を開いて命を請い、百濟は平定された。滅ぼした三国はいずれもその王を生け捕りにした。乾封二年、卒した。

孫子はいう、無形に至る、と。霧に乗じて頡利を破ったのがこれ。またいう、人の及ばざるに乗ずる、と。砂塵を見て賊営に突き込んだのがこれ。またいう、その不意に出る、と。雪をたのむ虜を追い襲ったのがこれである。

年表

蘇烈、字は定方、冀州武邑の人で、字をもって世に通った。隋末に賊を討った父の蘇邕に十五歳で従い、父の死後はその衆を率いて張金稱・楊公卿を破った。貞観の初めに李靖に従い、霧に乗じて突厥の頡利の牙帳を襲って功を立てた。のち伊麗道行軍大總管として西突厥の賀魯を曳咥河・金牙山に破って擒にし、左驍衛大將軍・邢國公に封ぜられ、都曼を降して蔥嶺以西を定めた。さらに神丘道大總管として百濟を攻め、義慈・隆・泰らを俘にした。滅ぼした三国のいずれでもその王を生け捕りにした唐の西征・東征の主将である。

年表(1件)

この篇の現代語訳全文について

この書の訳文は、Kindle版・ペーパーバックとして順次刊行しています。当サイトには底本の原文と各篇の要約を置いています。

刊行済みの巻は書籍のトップページに一覧があります。

© AI現代語訳推進委員会