十七史百將傳卷九 唐·唐休璟 唐璿(字休璟)

要約

唐璿は字を休璟、京兆始平の人。奚・契丹を蜀護山で破り朔州長史となった。

永淳年間、突厥に圍まれた豐州を棄てる議が起こると、廢せば河沿いは賊に歸すと上疏し、高宗は從った。

垂拱年間、安西副都護となり韋待價らの敗兵を收めて靈州都督となり、方略を陳べ四鎮の回復を請い、武后が王孝傑を遣わして龜茲などを拔いたのは休璟の唱え出しによる。

聖歷年間、涼州都督となり、洪源谷に入った吐蕃の曲莽布支の數萬騎を、その騎は精鋭だが戰いに習熟せぬと言って數千で迎え、六たび戰ってみな克ち、首二千五百を獲て還った。和を請う吐蕃の使者が宴でうかがい見、この將軍に士卒を多く殺された、その勇は比べるものがないと答え、武后は二衞大將軍に擢いた。

安西への道が閉ざされると策を畫し、のちの邊州の奏はみなそのとおりであった。武后は夏官尚書に進め、延和元年、八十六で卒した。

儒者でありながら兵を知ると稱され、山川の平險をみな言えて敗れたことがなかった。受降城の議にひとり不可と言ったが、成って漠南に虜の患いは無くなった。八十を過ぎてなお權勢に頼り用いられようとし、譏られた。

孫子はいう、廊廟の上で厲しく謀る、と。邊事の議が策のとおりになったのがこれ。またいう、險厄と遠近を計るのは上將の道、と。山川の平險をみな言えたのがこれである。

年表

唐璿、字は休璟。京兆始平の人で、字をもって世に通った。明經に舉げられて營州戶曹參軍から身を起こし、突厥・吐蕃との邊境の戰いで功を重ね、豐州の存置を上疏して認めさせ、洪源谷では吐蕃の曲莽布支を六戰六克して破った。のち夏官尚書・同鳳閣鸞臺三品として宰相に列し、武后から邊事に練達した者と評された。儒者でありながら兵を知ると稱され、山川の險易をことごとく言えたため軍を進めて敗れたことがなかったが、晩年に八十を過ぎてなお權勢に頼って再起を求めたことは譏られた。

年表(1件)

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