十七史百將傳卷十 唐李光弼 李光弼

要約

李光弼は營州柳城の人。沈着果断で謀略があり、王忠嗣は他日わが兵を得る者は光弼だと言った。

安祿山が反くと郭子儀が薦め、朔方の兵五千で常山を救い、屍が野を覆う地に酒を注ぎ哭した。捕らえた安思義の計により城に拠って守り、迫る史思明の二万を強弩五百で退け、九門に来た饒陽の賊五千を食事どきに襲うと、思明は引き上げた。潼關が失われ井陘に入った。

肅宗は靈武へ赴かせたが、光弼は五千で太原に入った。兵を渡さぬ崔眾を拘禁し、御史中丞に任ずる使者には、いまは侍御史を斬るだけだが詔を宣べるなら中丞をも斬ると言うと、使者は詔を懐に納めた。崔眾を斬ると威は三軍を震わせた。

至德二載、思明らが十万で攻めたが麾下は一万に満たない。民家を壊して攂石車を作り、飛樓と土山は穴を掘って崩し、天子を嘲る芸人は地下道から捕らえた。営地の下に溝を掘りつつ偽り降伏を約し、賊数千が塹に落ちると突騎が出て捕虜と斬首は万を数え、思明は去り、残る希德も斬首七万級を出して遁走した。光弼は自邸の門を過ぎても顧みなかった。

乾元の初め、子儀に代わって朔方節度使、ついで天下兵馬副元帥となった。兵を留めた張用濟を斬ると、懷恩は期日より早く至った。思明が西へ向かうと、潼關を保てば持久できると言う韋陟に、五百里を捨てれば賊は勢いを張る、河陽に移り勝てば出、敗れれば守るのがよいと言い、五百騎で殿を務めた。

李抱玉は糧が尽きて明日降ると賊を欺き南城修繕の時を稼ぎ、奇兵で挟み撃ちにして周摯を退かせた。周摯が安太清と三万で北城を攻めると、光弼は鋭いが騒がしい、日中には破れると言い、決しないと、乱れで乱れを撃てば功が無いのは当然だと、最も堅い西北の隅を郝廷玉に、東南の隅を論惟正に破らせた。大旗を三たび振れば諸軍はことごとく突入せよ、退く者は斬ると令し、旗を振ると諸軍は奮って斬首一万余級、周摯を捕らえた。光弼は勝てなければ首を刎ねると刃を靴に納めており、西に拝舞した。

上元元年、太尉・中書令を加えられ、懷州を囲んで思明を再び敗走させた。野水渡に壁を築き夕方に軍へ還り、雍希顥に、賊は必ず高暉・李日越に私を襲わせる、戦うな、降ったら連れて来いと言い残した。日越は太尉が去ったと聞き、希顥を獲ても帰れば死を免れぬとして降り、高暉も続いた。思明が野営を侮り襲わせただけだと光弼は説いた。廷玉が地下道から入り、王師は太清を捕らえた。

思明が諜者に賊の将士は帰心を抱くと言いふらさせ、魚朝恩は賊は滅ぼせると上奏した。光弼は軽々しく動くべきでないと言ったが、懷恩が朝恩に加担して戦いを督されたので北邙に宿営した。山に寄せて陣を布かせようとしたが懷恩は原野を望み、敗れれば殲滅されるという説きに従わなかった。賊が偽り遁げ、懷恩の軍が剽奪すると伏兵が起こり官軍は潰えた。帝は懷恩が令に違ったとして光弼を召した。

寶應元年、臨淮郡王に封ぜられ、姿は凌煙閣に図かれた。朝恩は北邙の策の誤りを恥じて光弼を忌み、程元振とともに中傷した。吐蕃が京師を寇し入援の詔が下っても禍を畏れて行かず、帝は東都留守を拝させて去就を見たが、光弼は徐州へ帰ると言い訳した。病が篤くなり、母を養えなかった不孝の子だと言って絹布を部将に分け与え、まもなく薨じ、部将らはその布で喪を行った。

光弼の用兵は謀を定めてのち戦い、少ない兵で多数を覆した。郭子儀と名を斉しくして「李郭」と称され、戦功は中興第一と推された。朔方では何も改めなかったが、号令するとその気色は精明になった。

孫子はいう、備えの無いところを攻める、言を低くして備えを増す者は進んで来る、彼我ともに利あるを爭地とする、三軍はその気を奪うべし、形に因って勝ちを措く、と。食事どきを襲い、溝を掘りつつ降伏を約し、河陽に移って賊を西へ行かせず、最も堅いところを攻め、二将を降らせたのがこれである。

年表

營州柳城の出身で、厳格沈着、謀略に富み騎射をよくした唐の将、李光弼。王忠嗣に見込まれて世に出、安史の乱では常山・太原・河陽で史思明の大軍をたびたび破った。郭子儀と並び称されて「李郭」と呼ばれたが、戦功では中興第一と推された。晩年は魚朝恩・程元振の中傷を畏れて召しに応じず、鬱々のうちに没した。

年表(9件)
  • 至德二載757年思明ら十万の来攻を太原で防ぎ、偽降と塹で賊を陥れ万を斬獲する
  • 至德二載757年決死の士を出して希德の軍を破り、斬首七万級、希德は遁走する
  • 乾元の初め758年入朝して兼侍中に進み、子儀に代わって朔方節度使となる
  • 乾元の初め758年天下兵馬副元帥となり、洛陽を捨てて軍を河陽に移し賊を西へ通さぬ策を採る
  • 上元元年760年太尉・中書令を加えられる
  • 上元元年760年懷州を囲み、救援に来た思明を再び敗走させる
  • 上元元年760年野水渡に塁を築き、賊将の李日越と高暉を降伏させる
  • 上元元年760年地下道から懷州を抜いて安太清を捕らえ、京師に送って太廟に献じる
  • 寶應元年762年臨淮郡王に封ぜられ、鉄券を賜わり姿を凌煙閣に描かれる

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