十七史百將傳卷十 唐李愬 李愬(字元直)
要約
李愬は字を元直、籌略があり騎射に巧みであった。憲宗が吳元濟を討ったとき高霞寓も袁滋も功が無く、愬は自ら試すことを求めて隨唐鄧節度使となった。
愬は軍が傷ついているとして斥候も部伍も組まず、戦うのはわたしの仕事ではないと令した。傷病の士を世話し、降った者には粟と帛を給した。蔡の人は侮って備えず、兵は愬のために死ぬことを願った。
半年後、騎兵二千を加えられ、馬鞍山・壚冶城・楚城を取って郎山を襲った。青陵城で捕らえた丁士良を捉生將とすると、士良は陳光洽を献じ、吳秀琳は文城柵を挙げて降った。吳房攻めに往亡の日を避けよと言う吏には、敵は来ないと思っている、これこそ撃てるのだと答えた。吳房は残して力を分けさせた。
秀琳が、李佑をおいて功を成す者はないと献じたので、愬は史用誠の騎兵三百に佑を捕らえさせ、殺せという諸将を退けて客とした。長雨を佑を殺さぬ罰とする声が収まらないと朝廷へ送り、殺せば蔡を誅する者がいなくなると上表した。釈されて還ると六院兵馬使とした。
元濟が精鋭を洄曲に屯させた隙に、愬は鄭澥に出師の期日を裴度へ告げさせた。元和十一年十月己卯、夜に軍を起こし、佑の突将を前鋒として張柴の守備兵を殲した。大雪と烈風に凍死する者が十に一、二あり、蔡州に入って元濟を取るのだと聞いて士は色を失った。夜半に懸瓠城へ至り、池の鵞鳥や鴨を撃たせて物音を紛らせ、城壁に穴を穿って登った。
夜明け、愬が外宅に入っても元濟は信じず、常侍が語をお伝えになると聞いて驚いた。田進誠が牙城に迫り、愬が書で召すと董重質は白衣で降った。南門に火が放たれると元濟は罪を請うて下り、京師へ送られた。申・光の二万も降り、愬は一人も殺さなかった。裴度に軍装で謁し、山南東道節度使に進んだ。
李師道が反くと愿に代わって武寧軍を帥い、十日で父と兄の二鎮を踏み継ぎ、淄青が平らぐと同中書門下平章事に進んだ。魏博にあって田弘正が殺されると、素服で、田公の恩を食んだ者は何をもって報いるのかと令し、兵はみな哭した。宝剣を牛元翼に贈り、亡父が大盗を翦り自分が蔡の奸を平らげた剣だと言った。病篤く田布が代わり、東都に還って卒した。蔡を平らげたときも市は店を移さなかった。
孫子はいう、用いて用いぬように見せる、不意に出る、専らにして敵は分かれる、捕らえた卒は養う、思いもよらぬ道を通る、国を全うするを上とする、と。卑弱を示したこと、往亡の日の攻撃、吳房を残したこと、降将を殺さぬこと、穴を穿って元濟を擒にしたこと、一人も殺さぬことが、これである。
年表
唐の将、李愬(字は元直)。はかりごとに長け騎射に巧みで、憲宗が淮西の吳元濟を討つとき、高霞寓・袁滋が敗れたのを承けて隨唐鄧節度使となった。みずから弱きを示して敵を油断させ、降将の吳秀琳・李佑らを厚遇して用い、雪の夜に奇襲して蔡州を陥し、吳元濟を擒にして一人も殺さなかった。のち武寧軍・魏博を帥い、淄青の平定にも功があって同中書門下平章事に進んだ。父の李晟とならび、功名の奇なることは近世に無いと称された。
年表(2件)
- 元和十一年十月己卯816年裴度に出師の期日を告げ、夜に軍を起こして雪中を進み蔡州を襲う
- 長慶の初め821年幽・鎮が乱れて田弘正が殺され、素服で魏の軍に令し牛元翼に宝剣を贈る
この篇の現代語訳全文について
この書の訳文は、Kindle版・ペーパーバックとして順次刊行しています。当サイトには底本の原文と各篇の要約を置いています。
刊行済みの巻は書籍のトップページに一覧があります。