三藩紀事本末四鎮(四鎮)

要約

崇禎甲申、黃得功を靖南伯に封じ、福王が僭立すると侯に進めて儀真に駐まらせた。劉澤清を東平伯として廬州、高傑を興平伯として瓜州、劉良佐を広昌伯として臨淮に駐まらせ、史可法は揚州でその軍を督した。

得功は忠勇で、酔えば双刀を振るって黄闖子と呼ばれた。傑はもと李自成の部将で、その妻を奪って帰順した。揚州に先に至ったが民は入れず、城を攻めて婦女を掠奪したので、可法は瓜州を与えた。

可法は傑を制しがたいとして得功を儀真に移した。得功が義兄弟の黄蜚を高郵に迎えに向かうと、傑は疑って道に伏兵を置いた。土橋で不意を突かれた得功はようやく免れたが、従った三百人は残らなかった。得功は決死の戦いを願ったが、可法は万元吉に和解させ、傑に千金を賻わせて止んだ。

傑は可法に感謝し、自ら帰徳・開封に趣いて宛・洛・荊・襄をうかがうことを請い、可法は壮としたが、得功が後詰めとはなるまいと察して儀真に駐まらせた。

十月、王師は可法に書を致して号を削り藩に帰るよう勧めたが、可法は大一統の義を挙げて拒んだ。

十一月、我が軍が宿遷に入ると可法は劉肇基らに回復させ、邳州の囲みも肇基が破った。傑が大軍に共に闖賊を滅ぼそうと書を送ると降を勧められ、従わず河沿いに牆を築いて備えた。豫王渡河の警に馬士英は清兵がすぐ渡ることはあるまいと疏し、四鎮があるのに何を慮ろうかと言った。十二月、大軍が邳州・宿遷を下し、可法が飛章して報じても応じなかった。

乙酉正月、傑は帰徳に至って許定国を招いたが来なかった。傑は越其傑らと睢州に赴き、饗宴で酔って定国が子を清軍に渡した事に触れると、定国は疑い、傑が臥すや衆に殺させた。翌日、傑の部隊は睢州を屠り、定国は王師に降った。傑は淫虐で揚州の民はその死を賀したが、進取の志を惜しむ者もあった。得功は傑の死を聞くと揚州を襲い妻子を殺して土橋の一件に報いようとしたが、可法が曲従直を遣わして解かせた。

三月、大軍は帰徳・睢州を破って徐州・潁州を下し、四月、左良玉は君側を清めると称して九江を下った。可法は北兵こそ宗社の危うきだと連疏したが、士英は左の兵のみを慮った。群臣が淮揚の備えを請い、王も淮揚を守るべきだと言うと、士英は、良玉の死党の遊説だ、清に死すとも左良玉の手に死してはならぬ、異議ある者は斬ると声を厲しくし、王は黙然とした。

李棲鳳・高岐鳳は可法を劫して降らせようとし、叱られて清軍に帰した。二十五日、砲に城壁は崩れ、可法は自刎して死にきれず、捕えられて降を拒み殺された。肇基は巷戦して一軍ことごとく没し、乙邦才ら諸将も死んだ。劉澤清は通款したが、反覆を憎まれて磔にされた。

五月八日、大軍が江に至ると江を守る二鄭・楊文驄は逃げ、十一日、都城に迫ると士英は真っ先に遁れ、王は蕪湖に奔った。城が破れると文武数百員と軍士二十三万が降り、張捷・高倬・黄端伯らは死んだ。

得功は王に、都城を死守すれば各鎮が兵を合わせて興復を図れたものをと泣いた。十五日、荻港で戦い、降っていた良佐が陣上から招くのを叱ったところ、良佐の背後から降将の張天禄が射て喉に中り、得功は抜いた矢で喉を刺して死んだ。田雄は王を挟んで出降した。

年表

福王の南京政権が江北に置いた四鎮、すなわち黄得功・劉澤清・高傑・劉良佐と、その軍をあわせて督した大学士史可法の二年間を追う。高傑と得功の土橋での衝突、史可法による調停と中原経略の構想、清軍への書簡の応酬を経て、高傑は睢州で許定国に殺される。馬士英が「長江天塹」を恃んで備えを怠るうちに揚州が陥ちて史可法は殺され、南京は降り、得功も荻港で自刎して四鎮は瓦解する。

年表(2件)
  • 崇禎十七年甲申黄得功ら四将を江北の四鎮に封じ史可法が揚州で全軍を督する
  • 順治二年乙酉高傑が睢州で許定国に殺され揚州も陥落して史可法・得功が死ぬ

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