三藩紀事本末両案(兩案)

要約

乙酉二月、高夢箕が先帝の太子は浙にあると密奏し、三月に召して馮可宗の家に寓させた。文武官に識認させると、王鐸が元講官の方拱乾を指して問うたのには自称太子も言い当てたが、進み出た劉正宗が誰かは言い当てられず、呉昌時鞫問の際の東宮の位置も答えられなかった。戴英が偽りを詰ると、高陽の王之明で、夢箕の家人穆虎に詐冒を教えられたと供述した。

馬士英は、虎口を脱しながら紹興に走ったこと、厚重なはずの東宮が機弁百出なことを疑い、法司に主使者を窮究させよと言った。鞫問で夢箕・穆虎は供服し、獄に下された。

士英が姜・黄らを併せて傾けようとすると、左良玉ら諸将は相次いで疑問を列ね、黄得功は先帝の子は陛下の子だと言ったが、王は自供が明らかだと諭すのみであった。

四月、左良玉は太子の密旨を奉じたと称して挙兵し九江に至った。五月十一日、王が奔ると士民は太子を獄から出して監国に奉じたが、十四日、趙之龍とともに出降して北へ去った。

三月十三日、福王の故妃童氏が至ると錦衣衛の監候に付された。氏はもと周王府の宮人で、洛陽の変後に旅邸で王と遇い一子を生んだ。劉良佐も士英も仮冒ではあるまいと言ったが王は応じず、入宮の年月を細かに書いても棄てて見ず、屈尚忠の厳刑に号泣し詛罵して獄中で死んだ。

年表

弘光朝を揺るがした偽太子の案と、福王の故妃童氏の案という二つの事件を記す。高夢箕が浙に先帝の太子ありと密奏し、召し取って鞫問した結果、王之明という詐冒と断じられた。左良玉・黄得功・劉良佐・何騰蛟・袁継咸らは相次いで疑義を唱えたが、王は取り合わなかった。左良玉はこれを名目に九江まで兵を進め、清軍が南都に迫ると士民は太子を獄から出して監国に奉じた。童氏もまた王に容れられず、厳刑を受けて獄中に死ぬ。いずれも順治二年(1645年)のことである。

年表(1件)
  • 順治二年乙酉1645年偽太子王之明と故妃童氏の二案が起こり、左良玉の挙兵と南都陥落に至る

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