三藩紀事本末王師、南浙を平定する(王師平南浙)

要約

順治二年乙酉五月二十日、王師が鎮江に至り、知府・推官・丹徒令はみなこれに死に、巡撫の霍達は遁れた。常州・蘇州が下ると、蘇州の徐汧は水に赴いて死んだ。挙人の楊廷枢もともに投じたとも、丁亥まで遁れ住んで斬られたともいう。太倉では諸生の王湛が兄の淳と兵を挙げて城を囲んだが敗れ、淳は水に赴き、湛は陣没した。

六月、貝勒は兵二千を呉閶に留め、大軍は杭州に趣いた。潞王常淓のいる杭州では撫按が書を奉じて迎え降り、銭塘知県の顧咸建、臨安知県の唐自彩は従わず死んだ。嘉興では屠象美らが城に拠ったが半月で破れ、徐石麒がこれに死んだ。閏六月八日、呉淞に入った。呉淞副総兵の呉志葵が煽惑して乱を作しているのを偵知し、偏将に兵二千を率いてここに拠らせた。

七月初四日、嘉興県を屠り、侯峒曾は二子を後河に沈めてから水に赴き、黄淳耀・淵耀の兄弟は僧舎で縊れた。初七日、崑山を屠った。崑山丞の閻茂才は使いを遣わして迎え降ったが、民は茂才を殺して王佐才を主に推し、朱集璜・周室瑜・陳大任らが兵を起こした。大軍は新詔到来と詭称して入城し、佐才は殺され、集璜は門人とともに河に投じ、室瑜・大任らは一族とともに死んだ。

八月初三日、松江府を屠った。沈猶龍と蔡喬が城に拠っていたが、大軍は奸細を護送してきたと詭称して門を開かせ、伏せてあった内応と合して城上は大清の旗に改まった。章簡・李待問は従わず死に、夏允彝らも水に投じた。初六日、黄蜚・呉志葵の水師を破り、蜚は投水し、志葵は降を乞うたが殺された。二十日、金山衛が破れ、侯承祖父子は死んだ。

江陰では許用・陳明遇・閻応元らが堅守したが、八月二十一日に城は陥り、死者は数万に及んだ。十一月十三日、崇明が下った。浙東でも祁彪佳・劉宗周・高弘図ら多くが自ら命を絶った。

閏六月、徽州では金声が義を挙げ、丘祖徳・尹民興・温璜・呉応箕らが応じ、唐王は僉都兼兵侍を授けた。九月、帰順を装った御史の黄澍が内応して城は破れた。声は門人の江天一とともに江寧へ送られ、天一が洪承疇の降諭を誚ったので、ともに戮された。祖徳は磔された。温璜はなお郡城を守っていたが、黄澍が城を献じたので、妻子を手にかけて自ら死んだ。翌丙戌正月、徐淮・呉漢超もまた寧国で敗れた。

年表

南京陥落の直後、清軍が鎮江から常州・蘇州・杭州へ進み、江南・浙東を平定していく経過を、各地の抵抗と殉難者の記録として綴る。嘉定では侯峒曾、崑山では朱集璜ら、松江では沈猶龍・夏允彝、江陰では閻応元・陳明遇が城に拠って戦い、いずれも屠城に終わる。浙東では劉宗周・祁彪佳らが自決し、江北の徽州では金声が挙兵したが黄澍の内応で敗れ、翌丙戌年に江寧で処刑された。

年表(2件)

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