清史紀事本末順治帝の入関(順治入関)

要約

世祖順治元年は明の崇禎十七年である。夏四月、摂政王多爾袞を奉天大将軍として山海関外を取らせ中原を経略させた。明は二月に関外の城守を撤して呉三桂を召したが、三桂は豊潤で京師の陥落と帝后の殉難を聞き進まなかった。自成は父の襄に書かせて招き、三桂は降を諾したが、愛妾の陳沅が掠われたと聞いて憤り、喪服で哀を発し、先帝の復讐を声言して山海関に馳せ帰った。

自成が唐通らに追わせると三桂は軍を返して破り、自成は十余万で山海関を攻め、兵を分けて関外に回らせた。三桂の乞いで多爾袞は沙河に疾駆し、阿済格・多鐸に各一万騎で東西の水関から入らせ、一片石で唐通を破った。三桂は謁し薙髪して誓い、入関を請うた。

承疇は居庸に出て空虚な北京を占め救援を待って擒にすべきだと説いたが、三桂は関門の禍が急だとして不可とし、多爾袞は三桂の兵を白布の目印で先行させた。自成は関内に北山から海まで陣を列ねたが、精鋭は一万に満たず、掠奪に飽き帰心を抱き、辺兵が動くと聞いて心を寒くした。三桂が衆を出し寇数千を殺すと、自成は明の太子と二王を挟んで岡から戦を観た。正午に風塵で両軍が見分けられなくなると、阿済格・多鐸の鉄騎が横ざまに陣へ躍り込み、辮髪を見た衆が満洲兵だと言うと寇は潰散し、自成は永平へ走った。この日、関の内外の兵民に薙髪させ、三桂を平西王に進めた。

五月、多爾袞が京師に入った。三桂は明の太子の即位を請うたが許されず、西へ賊を追わされ、太子を高起潜に送った。朔日、城中は義興元年と署した太子の手勅を受け取り、期日に駱養性らが哭臨し王徳化らが法駕を備えて迎えたが、入ったのは太子でなく、先駆けの騶者が都人の白い冠を取り去らせ、多爾袞が満洲兵を率いて入城した。諸臣が勧進すると范文程は、わが国の皇帝は去年すでに即位しておられる、何の勧進があろうかと言い、明の帝のために発喪・改葬して懐宗端皇帝と諡した。六月、燕京に都を建てて帝を迎え、九月に京師に至り、十月、南郊に祭告して時憲書を頒ち、明末の加派や廠衛の弊政を除いた。

十二月、明の太子慈烺を市に棄てた。太子は外祖父周奎の邸に寄ったが、姓を劉と偽れという勧めに従わず追い出され、夜行の禁を犯して捕らえられた。常進節・王徳化も東宮に侍衛した十人も真の太子だと言い、百姓数千も同じ声で呼んだが、降った晋王求桂だけが違うと言った。銭鳳覧は真と報告して求桂を呵し、謝陛らは偽と主張し、商民は釈放を請うた。多爾袞は、太子の真偽は問題でない、晋王は明の宗室、謝陛は明の大臣であるのに鳳覧が呵し百姓が罵るのはみな乱民だと言って獄に下し、太子と十五人を市に棄てさせた。

二年、朝鮮の来貢が常例となり、圏占の地の墳墓の祭掃を許し、生員を国子監に入れ、明史の纂修を始めた。六月、薙髪の制を定め、十日以内に明の制を存する者は殺して赦さぬとした。天罡星と称した劉伯泗、清光と建号した胡守龍は斬られた。洪承疇に江南を、呉惟華らに諸省を招撫させ、無主の地を旗人に与え、薙髪免除を請うた孔文標の職を削った。三年、会試の額を四百名に広げ、逃人隠匿の禁を厳しくし、明の魯王ら十一人を殺し、白蓮など諸教を捕らえ、五事の上奏を治罪するとした。四年、『大清律』を頒行し、マカオの佛朗西人の省会入りを禁じた。五年、満漢の通婚を許し服飾を満洲の装いに依らせ、明の后と称した天津の張氏を殺し、六年、捐納の例を開いた。

八年正月、帝は親政して大赦し、蘇克薩哈・鰲拝らを議政大臣とし、狩猟で圏占した地を原主に返し、諸王に部院を管理させたが九年に罷めた。魏象枢の諫疏は報聞とされ、会試第一の程可則は革名された。楊雍建が畋遊を諫めると帝は怒って苑の庭に跪かせ罪を数えたが、雍建は、臣はただ皇上を忠愛することを知るのみだと声を張った。洪承疇・陳之遴は星変と飢饉を挙げてダライ・ラマの親迎の停止を請うて容れられ、范文程らの屯田四事は是とされ、京師の大豪李応試らは殺された。

十年、李呈祥が部院から満官を去らせ漢人を用いよと条議すると、帝は、朕は人を用いるのに満漢を分けないのに異議を生ずるのかと怒り、盛京に流した。旱に直言を求め、福清王の嫡子の由杞、泰昌帝の子の由極ら二十九人を殺し、改折を一条鞭に定めた。十一年、趙開心の条奏に怒り、陳名夏は、頭髪を留め衣冠を復せば天下は太平になると語ったのを奏聞され絞殺された。十二年、季開生は女子採買の撤回を請うて流され、景山・瀛台の名を賜った。十三年、災変に祭告して三事で自らを責め、オランダが来貢し、閣臣の議政を停めた。十四年、北闈の関節で張我樸らを殺し、十五年、内監の呉良輔を殺し、孫可望を迎えて麻勒吉に辱められ自刎しようとした総督の張懸錫を、大臣の体を失ったとして三級降し、のち懸錫は縊死した。十六年、雲南蕩平により秋も会試を行い、誣告の禁を厳しくした。十七年、封駁の典を行い、八月に貴妃の董鄂氏が薨じた。もと董小宛、冒辟疆の姫人で、端敬と諡された。十八年正月、彗星が現れ帝が崩じた。年二十四、玄燁が嗣ぎ、世祖と号して孝陵に葬り、董鄂氏が殉じて貞妃を追封された。

編者はいう、端敬皇后が歿すると帝は朝を輟めて養心殿に独居して慟き、詔諭には「朕はまた人の世に何の心があろうか」とあり、遺詔にも喪祭の典礼が優厚に過ぎたとある。帝は崩ぜず位を遜って緇衣で雲遊し、五台山の清涼寺がその卓錫の処で、聖祖の行幸は帝に謁するためだと伝えられた。貞妃は端敬皇后の妹で、帝の出亡を知るのは妃だけであったが、告げる者があり懼れて自尽したという。施氏の『行在陽秋』には八旗の将士が明の永暦帝を推戴しようと謀った事が載り、文廷式が得た順治十三年の暦書は偽造でなく、聖祖は康熙元年の憲書を頒じつつ内廷には順治十九年の本を並び行わせたという。その言はみな拠るところがあり信じてよさそうだが、附会を疑うので篇には記さなかった、と。

年表

明の崇禎十七年(=順治元年、1644年)、李自成が北京を陥れたことを機に、呉三桂が山海関で清に援けを求め、摂政王多爾袞が入関して李自成を破り、燕京に都を移すまでの経緯から始まる一篇。以後は順治帝の治世十八年間を年ごとに追い、薙髪令・圏地・逃人の禁といった入関後の諸政策、明の太子や宗室の処刑、科挙・明史編纂などの文治、たび重なる地震・日食・水旱の災異を記す。洪承疇・范文程・陳名夏ら漢人大臣の登用と失脚、帝の狩猟をめぐる楊雍建・魏象枢らの諫争も描かれる。順治八年(1651年)の親政から順治十八年(1661年)の崩御、董鄂妃の死と出家伝説までで結ぶ。

年表(18件)

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  • 第1.0版(2026-09-27) 初版
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