清史紀事本末各省の叛乱(各省之叛乱)
要約
嘉慶元年正月、湖北荊州で白蓮教の匪徒が乱を起こし、巡撫の恵齢に討たせた。白蓮教は治病を名目に偽経で民を惑わせ財を集めるもので、安徽の劉松が甘粛に流された後、弟子の劉之協・宋之清らが四川・陝西・湖北で布教し、劫運まさに至らんと唱え、河南鹿邑の王発生を明の子孫と仮託して扇動した。露見して処刑されたが劉之協は逃げ、四川の官が戸ごとに捜索して無辜を連座させたので、枝江の聶傑人、宜都の張正謨らが蜂起し、みな「官が民を逼って反乱させた」と掲げて五省に蔓延した。時に石柳鄧・石三保・呉八月ら苗匪の征討に兵を割かれ、近くの部隊に討たせた。三月、富志耶が聶傑人を捕らえたが、姚之富と斉林の妻王氏が再び挙兵した。十一月、提督の永保を逮捕し、苗匪は捕らえられ呉隴登は降った。
二年五月、漢江を渡る姚之富らを撃たなかった恵齢を宜綿に、まもなく勒保に代えた。三年、明亮を獄に下し徳楞泰の職を剝奪したが、諸軍が賊を三坌河に破り、斉王氏・姚之富は崖から落ちて死んだ。七月、額勒登保が羅其清・冉文儔を討ち、勒保は王三槐を得たが、京で三槐が「官が民を逼った」と供述し、帝も哀れんだ。
四年正月、帝は蔓延の因が、和珅の意を受けた統兵大臣が軍を長引かせ脅従の者を殺して功としたことと知り、和珅に自尽を賜い、勒保を経略大臣として失機の諸臣を処断し、剿撫の方略を改め、堅壁清野を行い、賊の自新の道を開いた。七月、達州に安坐した勒保を明亮に、八月さらに額勒登保に代えた。五年、徳楞泰が冉添元を馬蹄岡に捕らえ、馬慧裕が劉之協を葉県に捕らえて京師に送り誅し、帝は『邪教説』を御製し、従逆の者のみを治め従教の者は治めぬ旨を示した。六年、楊遇春が王廷詔らを捕らえ、七年七月、苟文明を花石崖に斬り、十二月、額勒登保らが川陝の残匪粛清を奏報した。この役は九年を経て、費やした金は二億両に達した。
十一年七月、陝西寧陝の新兵が、月々の塩米銀五銭を布政使の朱勲が停めたため官を殺して叛いた。十月、総兵の楊芳が単騎で賊塁に入り蒲大芳らを降したが、帝は激怒して徳楞泰の職を奪い、楊芳を伊犁に流し、降兵を関外で誅させた。文官は問われず、聞く者は無実の罰とした。ほどなく四川綏定・陝西西郷の兵変も起こり、人心の不平を示した。
十二年十二月、李長庚が海賊の蔡牽を南澳の洋に破ったが、牽は安南に逃れた。牽は、福建の艇匪を併合し、総督の玉徳・阿林保が長庚の功を妬んで妨げたため勢いを増し、台湾の府城を攻めて鎮海王と称し、鹿耳門では財を散じて援兵を買収し囲みを破った。阿林保が一首領を斬って蔡牽の首と報告せよと勧めても、長庚は賊とともに死んでも生きはしないと答え、弾劾された。黒水洋の大戦で牽の船は三艘に減ったが、牽の奴僕の林阿小が火銃で長庚を斃した。十四年八月、孤立した牽を邱良功・王得禄が緑水洋に破り、牽は自船を裂いて海に沈み、海路は粛清された。
十八年九月、河南滑県で天理教の匪徒が乱を起こして県城を拠り、県令の強克捷は殉じ、温承恵に討たせた。天理教は白蓮教の流れで、滑県の李文成と大興の林清が首魁となり、清は内侍に賄賂して通じ、彗星の占いをこじつけて帝の木蘭行幸の隙に京師を占拠しようとした。克捷の密告は巡撫の高杞らに用いられず、克捷は文成を獄に下したが、一党は期日を待たず叛いて克捷を殺し文成を出し、直隷・山東の諸県でも官を殺し、曹と定陶は陥落した。十五日、林清は二百余人を宣武門から潜入させ、太監の手引きで東華門・西華門を侵し「大明天順」の白旗を掲げたが、養心門で皇次子の旻寧に二人を撃たれ、禁軍に捕らえられ、林清も黄村で誅された。帝は罪己の詔を下して朕の薄徳のゆえと言い、諸大臣が因循して力を尽くす者を陥れるゆえにこの変が起こったと責めた。変を聞いた董誥は涙して還幸を請い、曹振鏞は鎮静を勧め、時人は「庸庸碌碌たる曹丞相、哭哭啼啼たる董太師」と評した。
十月、温承恵を那彦成に代え、楊遇春に道口の文成を討たせた。十一月、道口を破ったが滑県は落ちず、城を出た文成は楊芳に追われ焼身して死に、十二月、穴を掘って城を崩し牛亮臣らを斬った。陝西南山の人夫が飢饉で木廠を焼いたのを朱勲が教匪と報じ、十九年正月、長齢らが廠賊の陳四・尹朝貴を生け捕りにした。十月、江西の朱毛俚が後明と号して謀反をはかり、阮元に探知されて胡秉輝ら十七人を磔、程麟祥ら三十五人を絞に処し、毛俚は逃げた。二十年、四川の洛布七力の乱を常明が平らげ、塔什密里克の回人の孜牙墩の乱は成寧らが鎮めた。二十二年三月、雲南臨安の辺外の高羅衣が漢人駆逐を名目に一万余を集め窩泥王と称したが、伯麟が処刑した。二十三年六月、甥の高老五が小窩泥王と称して府城に迫ったが、桂朝陽らに捕らえられ余党も滅ぼされた。
年表
嘉慶元年(1796年)の湖北荊州の白蓮教蜂起から、嘉慶二十三年(1818年)の雲南臨安の高老五の乱まで、各省で相次いだ反乱とその鎮圧を追う。聶傑人・張正謨に始まる教匪は姚之富・斉王氏・王三槐・冉文儔らを擁して五省に広がり、和珅の処断後に勒保・額勒登保・楊遇春らが方略を改めて九年を費やし苟文明の斬殺で終息する。続いて陝西寧陝の新兵の変、李長庚と海賊蔡牽の攻防、李文成・林清の天理教の乱が起こり、林清の徒党は禁城に侵入して皇次子旻寧に撃退され、滑県も那彦成らに攻め落とされる。さらに江西の朱毛俚、四川の洛布七力、カシュガルの孜牙墩、雲南の高羅衣らの騒乱が続いた。
年表(15件)
- 仁宗
- 嘉慶元年(1796年)湖北荊州で白蓮教の聶傑人・張正謨らが蜂起し、乱は五省に広がる
- 嘉慶二年(1797年)漢江渡河を防げなかった恵齢を退け、のち勒保に軍事を統べさせる
- 嘉慶三年(1798年)諸軍が三坌河で大勝し、斉王氏と姚之富が崖から落ちて死ぬ
- 嘉慶四年(1799年)和珅に自尽を賜り、勒保を経略としたが失敗し額勒登保に代える
- 嘉慶五年(1800年)馬慧裕が教首の劉之協を葉県で捕らえ、京師で誅する
- 嘉慶六年(1801年)楊遇春が両河口で大勝し、四川陝西の賊は二万余に減る
- 嘉慶七年(1802年)苟文明を秦嶺の花石崖で斬り、九年を費やした教匪の乱が平定される
- 嘉慶十一年(1806年)寧陝の新兵が俸給停止に怒って叛き、降伏させた楊芳が伊犁に流される
- 嘉慶十二年(1807年)李長庚が蔡牽を南澳に破るも、黒水洋の戦いで銃弾に当たり戦死する
- 嘉慶十四年(1809年)邱良功と王得禄が漁山の外洋で蔡牽を破り、蔡牽は自ら船を裂いて沈む
- 嘉慶十八年(1813年)天理教の李文成が滑県を占拠し、林清の徒党は禁城で旻寧に撃退される
- 嘉慶十九年(1814年)長齢らが廠賊の陳四・尹朝貴を捕らえ、江西の朱毛俚の謀反が発覚する
- 嘉慶二十年(1815年)洛布七力の乱を常明が平定し、カシュガルの孜牙墩も捕らえられる
- 嘉慶二十二年(1817年)雲南臨安の高羅衣が窩泥王と称して乱を起こし、伯麟が討ち平らげる
- 嘉慶二十三年(1818年)高羅衣の甥の高老五が小窩泥王と称して叛き、伯麟に討たれる
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- 第1.0版(2026-09-27) 初版