清史紀事本末道光の世局(道光世局)
要約
道光の一代は日食・地震・河決が相次ぎ、江南十七州県の大水、五省の雹害、東南の大地震があった。元年、雲南永北庁の夷乱を慶保が平らげ瞎眼唐老大を擒え、安定門が火災、京中の大疫は死者日に千百、閩省の荔枝・素心蘭の進上を停めた。二年、山西二十一州県の丁徭銀を銭糧に繰り入れ、青海の蘊依、河南新蔡の教匪の朱麻子、四川果洛克の番乱を長齢・程祖洛・桂涵が平らげ、奏稿を刪改した松筠を降し、書役の増置・漕米の横領・漕総の名目・阿片密輸を禁じた。三年、「墊完民欠」を禁じ、四年、黄河氾濫で張文浩を伊犁に、孫玉庭を革職留任とした。
五年、汪世紱の請で糧船の水手の教門の弊を籌議させた。水手は潘安・老安・新安と号し、羅祖を祀り老官を主教として四、五万人、旗丁を脅して賃を増させた。六年、初めて海運を試み、台湾の黄文潤の乱に許松年を遣わしたが、孫爾準に械闘案の処理誤りを弾劾され革職された。九年、光中通宝以下の銭文とアホンの公事干渉を禁じた。十年、白役を八十名に裁革し、阿片販売の章程を布き、両淮の塩政を総督に帰した。
十一年、広東の黎人の乱を李鴻賓が平らげ韋色容が伏法し、陶澍の請で淮北の塩を官督商運とし票塩法を行い、新疆に屯田を始めた。十二年、白蓮・八卦などの教の首犯は赦さぬと定め、于家湾の阿隄を盗み切られた張井を革職し、台湾嘉義の陳辦を十三年正月に擒え、二月に四川越嶲の夷乱に那彦宝・桂涵らを遣わし、五月に峩辺の夷人の桑樹格を擒えた。十四年、峩辺の夷人が焼き掠めたので楊芳を二等侯に降した。
十五年正月、曹振鏞が卒した。君意をうかがうのみで学問なく、答案の崩れ字を摘んで文体を頽れさせ、誤字を摘んで言路を塞ぎ、吏治と民生の衰え、内外の兵禍と未曾有の変局を開いた罪は一人にあるが、帝は信任して文正と諡した。同年、山西趙城の教匪の曾順の乱で知県の楊延亮が一家ごと害に遭い、のち峩辺の夷匪とともに粛清された。十六年、円明園の三殿が火災。十七年、昭勇侯楊遇春が卒した。数百戦傷を受けず、帝は福将と嘆じた。山東の塩務を巡撫に帰し、四川凉山の夷乱を凱因布らが平らげた。
十八年、濫囚と役者の隠匿で惇親王の緜愷を郡王に降し、尼寺で阿片を吸った奕𧷨と溥喜の爵を革め、貴州の謝法真の乱を伊里布が平らげた。十九年、治河の工法で功のあった栗毓美と、羅必勝と号された羅思挙が卒した。二十一年、祥符汛の河溢で文冲を革め、王鼎に東河の大工事を督辦させ、伊犁の林則徐を呼び戻して効力させた。二十二年、湖北崇陽の鍾人傑の乱を平らげ、王鼎が和議に反対して縊死し、遺書で穆彰阿を弾劾し林則徐を薦めたが、穆彰阿は張芾に子の伉を脅させ遺疏を別稿に代えさせた。
二十三年、海疆で軍律を失した奕山・奕経・文蔚・琦善・牛鑑・余歩雲らを処断し、部議は歩雲を斬立決、文蔚を革職留任、余を斬監候としたが、二日後に琦善ら三人が起用され、陳慶鏞が刑賞の錯りだと奏して革職させたが、数か月で皆また起用され、慶鏞は降格帰郷した。同年、雲南南甸の土匪を平らげ、中牟の決口を麟魁・廖鴻荃に督辦させた。二十四年、中牟が再決して二人は革職され、台湾の洪協、耒陽の陽大鵬も伏誅した。二十五年、西寧の番乱で総兵の応和が殺された。
二十六年、果勇侯楊芳が卒して二楊と並称された。雲南永昌の回乱は二十七年に粛清され、緬人が辺を騒がせ、喀什噶爾の回乱に布彦泰らを遣わし、湖南乾州の苗乱は裕泰らが撫定した。二十八年、会匪と海上の盗匪の捕縛を飭した。二十九年、四川中驣対の野番の工布朗の乱を琦善が平らげ、江蘇以下四省は五十日余の大雨で百年来の大水となり、正陽門の箭楼が火災。三十年正月、帝が崩じ皇四子の奕詝が嗣立した。寿六十九、諡は成、廟号は宣宗、易州平安峪の慕陵に葬った。
年表
道光元年(1821年)から三十年(1850年)まで、宣宗の治世三十年の内政と各地の騒擾を年ごとに記す。西南の夷人や台湾・貴州・新疆の反乱、黄河・永定河の氾濫と河督の罷免が繰り返され、阿片の密輸禁止、塩法の改革、海運の試行、白役の裁革といった施策が並ぶ。曹振鏞が君主の意を迎えて言路を塞いだことを、内外の兵禍を醸した罪として厳しく論じ、和議に反対して縊死した王鼎や、海疆で敗れながら再起用された琦善・文蔚・奕経と、これを論駁した陳慶鏞の末路を対比する。楊遇春・楊芳ら二楊の死を経て、道光三十年正月に帝は崩じ、皇四子奕詝が嗣立した。
年表(29件)
- 宣宗
- 道光元年(1821年)雲南永北の夷人の乱を慶保が平らげ、京中に大疫が流行する
- 道光二年(1822年)青海の番人の乱を長齢が平定し、海口での阿片密輸の取り締まりを厳命する
- 道光三年(1823年)墊完民欠の名目を永遠に禁じ、江南十七州県が大水で飢える
- 道光四年(1824年)黄河氾濫により河督張文浩を革職枷号のうえ伊犁に送る
- 道光五年(1825年)糧船水手の羅祖信仰による集金の弊を防ぐ策を議させる
- 道光六年(1826年)初めて海運を試行し、台湾の黄文潤の乱が起こる
- 道光七年(1827年)四月丙午朔に日食があった
- 道光八年(1828年)三月と九月の朔に日食があった
- 道光九年(1829年)帝が太后を奉じて盛京に詣で、陵に謁する
- 道光十年(1830年)州県の白役を裁革し、内地での阿片販売取り締まりの章程を宣布する
- 道光十一年(1831年)陶澍の請により票塩法を行い、新疆で初めて屯田の法を施す
- 道光十二年(1832年)白陽・白蓮・八卦等の教の首犯を赦免対象から外し、台湾で陳辦が叛く
- 道光十三年(1833年)陳辦が擒えられて台湾の乱が平らぎ、四川越嶲の夷の乱も粛清される
- 道光十四年(1834年)峩辺の夷の再起により提督楊芳を二等侯に降す
- 道光十五年(1835年)曹振鏞が卒し、言路を塞いだ罪を論じられつつ文正と諡される
- 道光十六年(1836年)円明園の三殿が火災にあう
- 道光十七年(1837年)陝甘総督楊遇春が卒し、忠武と諡される
- 道光十八年(1838年)阿片を吸った荘親王奕𧷨らの爵を革め、貴州の謝法真の乱を平らげる
- 道光十九年(1839年)河東河道総督栗毓美が卒し、湖北提督羅思挙も卒する
- 道光二十一年(1841年)祥符汛の決壊で王鼎に東河の大工事を督辦させ、林則徐を呼び戻す
- 道光二十二年(1842年)王鼎が和議に反対して縊死し、遺疏は穆彰阿の手で差し替えられる
- 道光二十三年(1843年)陳慶鏞の奏により琦善・文蔚・奕経を革職するが、まもなく再起用される
- 道光二十四年(1844年)中牟の諸口が再決壊し、台湾の洪協・湖南の陽大鵬の乱が起こる
- 道光二十五年(1845年)西寧の番人が乱を起こし、総兵の応和が殺される
- 道光二十六年(1846年)前湖南提督楊芳が卒し、雲南永昌の回人が乱を起こす
- 道光二十七年(1847年)喀什噶爾の回人の乱に布彦泰・奕山を派し、湖南乾州の苗も撫定する
- 道光二十八年(1848年)両広・湖南・江西に会匪の捕縛を飭し、海疆に洋盗の取り締まりを命じる
- 道光二十九年(1849年)江蘇浙江など四省で百年来なかった大水となり、田がことごとく水没する
- 道光三十年(1850年)帝が六十九歳で崩じ、皇四子奕詝が嗣立して慕陵に葬られる
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- 第1.0版(2026-09-27) 初版