清史紀事本末イギリスとの煙台条約と続約(英訂煙台条約及続約)
要約
光緒元年正月、イギリスの翻訳官である馬嘉理が雲南で殺された。総理各国事務衙門の護照を受けて緬甸へ赴き、インドから来た柏郎らを出迎えて引き返し、騰越庁管轄の蛮允で殺されたのである。イギリス人は雲貴総督の岑毓英の指図と考え、交渉が起こった。
二月、岑毓英に確実な調査処理を命じ、軍機大臣らに、イギリスが雲南に目をつけているのは一日のことではない、いま事寄せて争いの口火を切り、こちらを脅して要求を通す策にしようとしているのだから急いで防備を計るべきだ、と諭された。
三月、劉嶽昭らに公平な処理を命じた。総督が探り聞いたところでは、威妥瑪が北京を出るときロシア公使の布策が彼と密談し、イギリス兵が雲南に進めばロシア兵も伊犁から進んで中国が首尾相かえりみられぬようにすると言い、総税務司の赫徳も本国が兵五千を境界に駐屯させていると述べた。政府は、野人は鉄壁関の外に住むとはいえその地はなお中国に属する、殺したのでないのに押しつけたり王法の及ばぬところだと言ったりすれば、台湾の番社の事のように彼らは兵を派して奸計を遂げよう、と述べた。五月、李瀚章に雲南で取り調べさせ、八月には薛煥を赴かせて助力させた。
二年六月、李鴻章を全権大臣として煙台へ赴かせ、威妥瑪と会商させた。これより先、李瀚章らは、帰りは匪徒の多い野人・土司の地界を隔て、騰越の紳士・住民は洋兵の入関を聞いて団を集め自衛していたが、地方に知らせず引き返したため匪徒が掠奪し、洋人が拳銃を発して匪徒の阿用を殺したので、逮捕に抗して馬嘉理と従者四名を殺したのであり、地方官が殺害を指図した事実はないと復命した。威妥瑪は関係者と証人の北京移送を強く請い、容れられぬので四月に北京を出て煙台にとどまった。
七月、鴻章は煙台で条約を定めた。威妥瑪はなお岑毓英の指図だと固執したが、鴻章は、供述・証拠は確実である、対質を求めるなら指図した文書か証人を出せ、そうでなければ中外いずれの国にもこのようなやり方はないと反駁した。威妥瑪はさらに滇案の処理、駐京大臣の優遇、通商事務の整頓を一括してこそ結着できると言った。おりしも六国の駐京使臣と英独の水師提督が煙台におり、鴻章は宴を設けて連絡を結んだ。各使臣が、確証がないのに北京へ移送するのは不当だと公けに議したので、威妥瑪は別の方法を承知し、会議条款三端と専款一条を取り決めた。煙台条約である。
第一端は滇案の昭雪で、威妥瑪が上奏の草稿を作って李鴻章か総理衙門が上奏し、勅旨ののち各省に通達して告示に載せ、雲南と緬甸の通商章程を会同協議し、五年を期限としてイギリスが官員を大理府などに置いて通商を視察し、撫恤と償還を関平銀二十万両と定め、議結ののち璽書を奉ずる出使大臣をイギリスへ遣わすこととした。第二端は会見の礼節と案件の審理で、礼節の条款を各国駐京大臣と協議して定め、イギリス人にかかわる人命・強盗の案件にはイギリス大臣が官員を派して立ち会わせ、被告の本国の官が審理し原告の本国の官は立ち会って論じ争えるものとした。
第三端は通商事務で、各港の租界を洋貨の釐金を免ずる場所とし、宜昌・蕪湖・温州・北海の四港を開いて領事を駐箚させ、重慶にも官員を置くが汽船が至るまで商民は問屋を開いてはならぬとし、長江沿いの大通・安慶・沙市などでは汽船の一時停泊のみを許し、租界未定の地は各国領事と地方官が境界を定め、洋薬は新関が検査して封印し売却の時に関税と釐税を併せ納めさせ、既納税の存票は三年を期限とし、香港海面の巡邏船の章程は三方の官員が会同して定めた。あわせてイギリスは翌年に官員を派して甘粛・青海や四川から入蔵してインドに至る路程を探査する意向を示した。
十一年五月、駐英使臣の曾紀沢がイギリスの首相兼外務尚書の侯爵沙力斯伯里と煙台条約の続訂専条十款を結んだ。洋薬の税釐を併せ徴することは条約に載りながら、威妥瑪が本国に諮るという口実で数年引き延ばしていたが、九年正月に彼が帰国したので紀沢に協議させ、李鴻章が以前に議した百一十両の額のとおりなら議を定めてよいとした。紀沢は前の外務尚書葛蘭斐爾と協議して二月に議を成し、調印を催促したが、イギリス外務部は、内閣学士の周徳潤が鳳陽関の違例の徴税を弾劾した件のため、インド省が専条は官吏に破られぬという担保を求めていると言った。紀沢が、条約が定まれば思いがけない強要は起こらぬと声明したので、三日を調印の期日と定めた。
続約は、第三端第一・第二節の処理方法は後日協議するとし、洋薬は海関の検査を受けて封印保管し、一箱百斤ごとに正税三十両と八十両を超えぬ釐金を納めてはじめて搬出を許し、運貨憑単を発して印封が改められていなければ内地で重ねて税を取らず、憑単は中国の人民のみが用い、売りさばかれる土地の税は土煙より増やさぬとした。また続増専条は煙台条約と同一と見なして調印後六か月で実施し、洋薬の章程は四年間行い、以後は十二か月前の声明で廃棄でき、廃棄すれば天津条約の附属章程により、批准文書は倫敦で交換する。
年表
イギリスの翻訳官馬嘉理が雲南の蛮允で殺害された滇案を発端に、イギリス公使威妥瑪が岑毓英の指図を主張して全案の北京移送を迫り、交渉が難航した経緯を記す。李鴻章が全権大臣として煙台に赴き、各国公使との交誼を用いて威妥瑪を譲歩させ、滇案の昭雪・官員の礼節と審理・通商事務の三端から成る『煙台条約』を結んだ。さらに洋薬の税釐併徴が久しく実施されないまま延びたため、駐英使臣の曾紀沢が沙力斯伯里と『煙台続約』十款を訂めて決着させた。光緒元年(1875年)から光緒十一年(1885年)までを扱う。
年表(3件)
- 徳宗
- 光緒元年(1875年)馬嘉理が雲南の蛮允で殺され、岑毓英・劉嶽昭らに調査処理が命じられる
- 光緒二年(1876年)李鴻章が全権大臣として煙台で威妥瑪と会商し『煙台条約』三端を取り決める
- 光緒十一年(1885年)曾紀沢が沙力斯伯里と洋薬の税釐併徴を定める続訂専条十款を成立させる
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- 第1.0版(2026-09-27) 初版