十七史百將傳卷三 後漢馮異 馮異(字は公孫)
要約
馮異は字を公孫、潁川の父城の人である。『左氏春秋』『孫子兵法』に通じ、光武が父城を通ったとき牛と酒で迎え主簿とされた。蕪蔞亭では飢えた人々に豆粥を奉り、南宮では大風雨に薪を抱え、麦飯を進めた。のち偏将軍・応侯となった。
手柄を誇らず、諸将と行き会えば車を引いて道を譲り、功を論じる席では独り樹の下に退いたので「大樹将軍」と呼ばれ、部隊の編成し直しでは軍士が皆大樹将軍に属したいと言った。
孟津将軍として寇恂と洛陽の李軼・朱鮪を拒み、李軼に、長安は乱れ蕭王に英傑が集まるから速やかに大計を定めよと書を遺った。李軼は返書して鋒を争わず、馮異は上党の二城を抜き河南の十三県を下した。武勃を斬って首級五千余を獲たとき李軼が救わぬのを奏聞すると光武はその書を朱鮪に知らせ、朱鮪は李軼を刺殺させ城中は離反した。
建武二年春、陽夏侯に定封された。鄧禹が三輔の赤眉・延岑を平定できず代わって討たせ、帝は、地を略し城を屠るためでなく安んじ集めよと敕した。馮異は華陰で六十余日拒み、五千余人を降した。
建武三年春、征西大将軍に拝された。鄧禹らは恩信で誘うべきだという馮異に従わず、敗れたふりの赤眉に誘われて鄧洪の軍は潰え、鄧禹も再戦して大敗した。馮異は回溪の阪を上って営に帰り、散兵を収めて壮士に赤眉の服を着せ伏せた。翌朝、賊と戦い、伏兵が起こると赤眉は敵味方の別を失って潰え、男女八万人が降り、残る十余万も宜陽へ降った。璽書は、回溪に翅を垂れたが黽池に翼を奮ったと労った。
馮異は帷幄に侍りたいと願ったが許されず、のち関中を専制し「咸陽王」と号されると上章する者があった。章を示されると懼れ、功はみな国家の謀慮から出たと謝し、詔は、義は君臣、恩は父子だと報じた。
建武六年春に京師に朝すと、帝は公卿に、我が兵を起こしたときの主簿だと言い、豆粥と麦飯に報いていないと詔した。馮異は稽首し、巾車の恩を忘れませんと謝した。
諸将が隗囂に敗れ栒邑への駐屯を詔されたが、着かぬうちに隗囂が勝ちに乗じ行巡を分遣して栒邑を取らせた。諸将は争うなと言ったが、馮異は、栒邑を取られれば三輔が動揺する、先に城を拠えて逸で労を待つと言い、旗を伏せ鼓を止めて城に入り、知らずに赴いた行巡を不意に鼓を撃って破った。のち病を発し軍中で薨じた。
孫子はいう、親しめば離間し、乱れれば取る、先に戦地に処る者は逸、微なるかな形なきに至る、と。馮異が李軼に書を致し、服を変えて赤眉に勝ち、先に栒邑を拠え、旗を伏せ鼓を臥せたのが、これである。
年表
後漢の将、馮異(字は公孫)。潁川の父城の人で読書を好み、『左氏春秋』『孫子兵法』に通じた。光武が司隸校尉のときに帰順して主簿となり、蕪蔞亭の豆粥・滹沱河の麦飯で苦境の光武を支えた。功を誇らず宿営のたび樹下に退いたため「大樹将軍」と呼ばれた。孟津将軍として李軼に書を送って朱鮪との間を離間し、河南の地を下した。のち鄧禹に代わって三輔の赤眉・延岑を討ち、回溪に敗れたのち黽池で伏兵を用いて赤眉を大破した。「咸陽王」と称されていると讒言されたが帝に信任され、隗囂の将行巡を栒邑で破り、のち軍中で病没した。
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