十七史百將傳卷四 後漢班超 班超(仲升)

要約

班超は字を仲升といい、扶風平陵の人である。家が貧しく官の書写の賃仕事で家を養ったが、あるとき筆を投げ捨てて嘆いた。「大丈夫たる者、傅介子・張騫に倣い、異域に功を立てて封侯を得るべきである」。人相見も万里の侯の相だと告げた。

竇固が匈奴を撃つにあたり、超は假司馬として西域へ使いした。鄯善王の廣が急に疎遠になると、超は匈奴の使者が来ていると見抜き、吏士三十六人に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と説いて、夜の大風に乗じて虜の営に火を放ち、使者と従士三十余級を斬り、残る百人ばかりを焼き殺した。廣はその子を人質に納めた。

帝は「吏に班超がいるのに、何ゆえ遣らずに改めて選ぶのか」と詔し、軍司馬として再び遣わした。超は増兵を断り、もとの三十余人で十分だと答えた。

于闐王の廣德は礼が疎かで、巫が漢の使者の騧馬を取って祀れと言った。超は許すと答えて巫を来させ、その首を斬って廣德に送った。廣德は恐れ、匈奴の使者を殺して降った。

龜茲王の建は疏勒の王を殺して兜題を立てていた。超は吏の田慮に兜題を縛らせ、故王の兄の子の忠を王に立て、兜題は威信を示すため釈放した。

肅宗が即位して超を召すと、疏勒の都尉の黎弇は自ら頸を刎ね、于闐では王侯以下が号泣して馬の脚を抱えた。超は志を遂げようとして疏勒へ引き返した。

超は上疏して兵を請い、龜茲を得れば西域で服さぬ者は百分の一にすぎず、諸国と兵を連ねれば数か月で擒にできる、夷狄をもって夷狄を攻めるのは良き計だと述べた。徐幹が千人を率いて赴いた。

超は徐幹とともに反いた疏勒の都尉の番辰を大破した。ついで烏孫は弓を引く者十万の大国だとして招き慰撫することを請い、帝は容れた。その烏孫への使者を護送する李邑は恐れて進まず、西域の功は成らぬと上書して超を誹謗した。帝は邑を責めて超の指揮を受けさせ、超は邑に烏孫の侍子を率いて京師へ還らせた。留めよという徐幹に超は、内に省みて疚しいところがなければ人の言は気に病まぬ、気を晴らすために留めるのは忠臣のすることではないと言った。

莎車に誘われて疏勒王の忠が反くと、超は錦帛を月氏王に贈って康居王を説かせ、康居は兵を引いて忠を捕らえた。三年の後、忠は康居の兵を借りて偽って降ろうとしたが、超は奸計を知りつつ許し、宴の酒がめぐったところで斬った。

超は諸国の兵二万五千で再び莎車を撃ち、龜茲王は五万で救わせた。超はそれぞれ散り去ると告げて捕虜に漏らし、龜茲王が西、溫宿王が東の境へ出払うと、鶏鳴に莎車の営へ馳せて五千余級を斬った。莎車は降り、威は西域に震った。

月氏は漢の公主を求めて拒まれた恨みから、副王の謝に七万で攻めさせた。超は、蔥嶺を越えて来て輸送がなく、堅く守れば飢え窮して自ら降ると諭した。謝が龜茲へ出した賄賂の使者を伏兵で撃って首を示すと、謝は罪を請い、龜茲・姑墨・溫宿は皆降った。

超は都護、徐幹は長史となった。二心を抱く焉耆らを討つべく諸国の兵七万を発し、断たれた葦橋を避けて別の道から渡った。会日を定めて賞賜を加えると言いふらすと廣・況ら三十人が出向き、超は危須王が来ないことと腹久らの逃亡を詰問して廣・況らを斬り、元孟を焉耆王に立てた。西域五十余国は人質を納めて内属し、超は定遠侯に封ぜられた。

超は年老いて故郷を思い、酒泉郡までは望まず、ただ生きて玉門関に入ることを願うと上疏した。詔して還され、西域にあること三十一年、洛陽で射聲校尉に拝されたが病が重くなり、七十一で卒した。

交代する任尚が教えを乞うと、超は、塞外の吏士は罪過によって辺境に充てられた者、蠻夷は養いがたいとして、水が清ければ魚は棲まず、政を細かく察すれば下は和さない、大綱を総べるだけにせよと言った。尚は平凡だと笑ったが、数年に至って西域は反乱した。

孫子はいう、度を過ぎれば従う、人を焼く、衢地には交わりを結ぶ、用いて用いざるを示す、飽をもって飢を待つ、と。超の吏士が死生ともに司馬に従うと言い、風に順って火を放ち、烏孫を招き慰撫して龜茲を攻め、偽って散り去ると言い、穀を収めて月氏を敗ったのが、これである。

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