十七史百將傳卷五 蜀諸葛亮 諸葛亮(孔明)

要約

諸葛亮は字を孔明といい、琅邪の陽都の人である。自ら田を耕して梁父吟をうたい、つねに管仲・楽毅になぞらえたが、崔州平と徐庶だけが然りと言った。

先主が新野にいたころ徐庶は臥龍だと勧め、先主は三たび足を運んで会った。

先主が計を問うと亮は、操は鋒を争えず、孫権は頼めても図れず、荊州は主が守りきれず、益州は天府だが劉璋は暗愚として、荊・益にまたがり険阻を保ち、西は諸戎と和し南は夷・越を撫し、外は孫権と結び内は政を修め、変あれば荊州の軍を宛・洛へ、先主自ら益州の衆で秦川に出れば覇業成ると答えた。關羽・張飛が快しとせぬと先主は、孤に孔明あるは魚に水あるごとしと説いた。

劉表が死に琮が曹公に降ると、先主は樊から南へ向かったが破られ、夏口で亮は、孫将軍に救いを求めに行かせてくださいと言った。

柴桑で観望する権に亮は、呉・越の衆で中国に抗しうるなら早々に断つ、当たれぬなら帰服なさるがよい、決断なくば禍が至ると説いた。なぜ操に仕えぬかと問われ、田横さえ義を守った、まして王室の血筋と答えた。権が敗れたての豫州を案じると、亮は、戦士と關羽の水軍で一万、劉琦の戦士も一万を下らず、操の衆は強弩の末、北方の人は水戦に慣れず荊州の民も心服せず、力を合わせれば破るは必定と言った。権は喜び周瑜・魯粛らに水軍三万を遣わした。

曹公は赤壁で敗れて鄴に帰り、先主は江南を収め亮を軍師中郎将とした。建安十六年、劉璋が先主を迎えると亮は關羽と荊州を鎮め、先主が璋を攻めると張飛・趙雲らと長江を溯り成都を囲んだ。平定後は軍師将軍となり、先主の即位で丞相となった。

章武三年の春、先主は永安で病篤く、君の才は曹丕の十倍だ、嗣子がその器でなければ君自ら取れと後事を託し、後主には丞相に仕えること父のごとくせよと敕した。

建興元年、武郷侯に封ぜられ府を開き、益州牧を兼ね、政事はみな亮が決した。南中の諸郡が叛いたが、大喪の後ゆえすぐ兵を加えず、呉と和親して同盟国とした。三年の春に南征し秋に平定し、軍資はそこから出て国は富んだ。

五年、漢中に屯するにあたり上疏し、宮中の事は郭攸之・費禕・董允、営中の事は向寵に諮るべきこと、布衣の身を先帝が三たび草廬に訪ね、任を受けて二十一年になること、南方は定まり兵甲も足るゆえ中原を定め漢室を興復すべきを述べた。

六年の春、斜谷道から郿を取ると揚言し、趙雲・鄧芝を疑兵に箕谷に拠らせ、自ら祁山を攻めると三郡が魏に叛いて応じた。馬謖が街亭で張郃に破られると、漢中に還り謖を誅し、自ら三等を貶し丞相の事を行った。冬、陳倉を囲んだが糧尽きて還り、追う王雙を斬った。七年、武都・陰平を攻めさせ、自ら建威に至ると郭淮は退き、二郡を平定し丞相に復された。九年、また祁山に出て、糧尽きて退く時に張郃を射殺した。

十二年の春、斜谷から出て流馬で運び、五丈原に拠り司馬宣王と渭南で対峙した。糧が続かぬを患いとして兵を分け屯田させ、耕す者は住民に混じったが軍がかすめ取ることは無かった。百余日の後、八月に病んで軍中に死んだ。時に年五十四。宣王はその塁を見て回り天下の奇才だと言った。諡して忠武侯。連弩の改良や木牛・流馬、八陣図はその考案に出た。

孫子はいう、衢地には交わりを結ぶ、百里を行いて利を争う者は三軍を擒にさる、敵に勝ってますます強し、敵と戦えなくするにはその赴く所を違わす、法令はいずれかよく行わるる、令素より信ぜらるる者は衆と得心し合う、と。亮が孫権と頼み合えると説き、曹公を強弩の末とし、南夷の渠帥をそのまま用い、門を開き水を灑いで宣王を去らせ、命に違った馬謖を誅し、交代の兵を引き留めず軍士が感激したのが、これである。

年表

琅邪の陽都の出身で、字を孔明といった蜀漢の丞相、諸葛亮(?–234年)。みずから田を耕しながら自分を管仲・楽毅になぞらえ、徐庶の推挙で先主の三顧を受け、荊州・益州を併せ取って孫権と結ぶ天下三分の計を説いた。赤壁の前には孫権を説いて同盟を成立させ、先主の没後は後主を輔けて南中を平定し、たびたび北伐して魏と戦い、五丈原の陣中で没した。諡は忠武侯。

年表(13件)
  • 建安十六年211年劉璋が法正を遣わして先主を迎え、亮は關羽とともに荊州を鎮める
  • 章武三年223年先主が永安で病篤くなり、亮を召して後事を託す
  • 建興元年223年武郷侯に封ぜられ、府を開いて政務を執り、益州牧を兼ねる
  • 建興元年223年南中の諸郡が叛くが兵を加えず、使者を呉に送って和親を結ぶ
  • 建興三年225年春に南征し、その秋にことごとく平定する
  • 建興五年227年諸軍を率いて北のかた漢中に駐屯し、出発に臨んで上疏する
  • 建興六年228年春に祁山を攻め三郡が呼応するが、馬謖が街亭で張郃に大敗する
  • 建興六年228年馬謖を誅し、上疏してみずから三等を貶され右将軍となる
  • 建興六年228年冬に散関へ出て陳倉を囲み、糧尽きて還る途中で王雙を斬る
  • 建興七年229年武都・陰平を攻めて郭淮を退け二郡を平定し、丞相に復される
  • 建興九年231年再び祁山に出て木牛で輸送し、退軍のさい張郃を射殺する
  • 建興十二年234年斜谷から出て五丈原に拠り、司馬宣王と渭南で百余日対峙する
  • 建興十二年234年八月、病を得て軍中に死去する。時に年五十四

この篇の現代語訳全文について

この書の訳文は、Kindle版・ペーパーバックとして順次刊行しています。当サイトには底本の原文と各篇の要約を置いています。

刊行済みの巻は書籍のトップページに一覧があります。

© AI現代語訳推進委員会