十七史百將傳卷七 梁韋叡 韋叡

要約

韋叡は字を懷文、京兆杜陵の人。梁の武帝に身を寄せ、檄が届くと筏を作り兵二千・馬二百で駆けつけた。帝は喜んで、以前は君の顔を見たが今日は君の心を見たと言い、駿馬を捨てて乗らぬ理はないと江夏太守とした。

天監二年、豫州刺史となり魏軍を撃退した。四年、諸軍を都督し小峴城を攻めた。城中から数百人が出ると、着甲を待てと渋る諸將に、理由なく出たのは必ず驍勇の者だと説き、節を指して軍法は犯せぬと告げ夜半に城を抜いた。

合肥に進んで淝水を堰き舟艦を城まで通した。魏の楊靈嗣が五萬で来襲し増援を請う声は勝つのは和にありと退けた。魏が迫り退却を勧める声には、將軍たる者は退けば死あるのみと怒り、傘・扇・麾・幢を堤の下に立てた。体弱く馬に乗らず板輿で督励し、堤上に塁を築き鬥艦を城と同高にして四面から臨み、城は潰えて一萬余人を捕虜とした。胡景略と趙祖悅の不和は酒で和させた。軍を返すには輜重を先にし小輿で殿し魏人は迫らなかった。

五年、元英が昌義之を鍾離に囲み曹景宗が進まぬので帝は怒り、韋叡に龍環の御刀を賜って合流させ、十日で邵陽に着いた。夜のうちに塹壕を掘り鹿角を立て洲を城とし、夜明けには陣営ができて元英は何という神業だと驚いた。楊大眼が一萬余騎で囲むと強弩二千を一時に発し、矢が右腕を貫き大眼は逃げた。翌朝の元英には白木の輿と白角の如意で指揮して当たり、夜襲にも城を下りず軍中を叱り鎮めた。淮水が増水すると水軍を出し、膏の小船で橋を焼き決死の士が柵を抜いた。魏人は大いに潰え、元英は身一つで逃げ、水死十余萬、斬首も同数、囚を乞う者数十萬。昌義之は生き返ったと叫び、韋叡は侯に進んだ。

馬仙理が追撃され三關が動揺すると安陸に至り城を増築した。弱みを見せると譏られ、將たる者には臆病であるべき時があると言い、元英は韋叡が来たと聞いて退いた。普通元年、侍中・車騎將軍に遷ったが拝命せずに卒した。

陣営の幕が立たぬうちは宿舎に就かず、井戸と竈ができぬうちは食わず、陣に臨んでも輿に乗り竹の如意で指揮した。

孫子はいう、兵の情は速きを主とする、声すら無きに至る、及ばざれば避けられる、兵卒を愛子のように見る、と。韋叡が十日で邵陽に着き、夜明けまでに陣営を立てて元英を驚かせ、將には臆病であるべき時があると言い、幕の立たぬうちは宿舎に就かなかったのが、これである。

年表

字は懷文、京兆の杜陵の人、韋叡。挙兵の檄に応じて兵二千・馬二百を率いて梁の武帝に馳せ参じ、江夏太守に任じられた。豫州刺史として小峴城を抜き、淝水を堰いて合肥を陥とし、鍾離では曹景宗と和して元英・楊大眼の大軍を破った。体が弱く馬に乗らず、板輿や白木の輿に乗り如意を手に軍を指揮した。士卒を仁愛し、魏人はその威名に服して追撃を控えたという。

年表(4件)
  • 天監二年503年豫州刺史に遷り歷陽太守を兼ね、攻め寄せた魏軍を撃ち退ける
  • 天監四年505年諸軍を都督して魏に侵攻し、夜半に小峴城を抜く
  • 天監五年506年鍾離を囲む元英の大軍に対し、邵陽洲の橋を焼いて魏軍を潰滅させ、爵を進めて侯となる
  • 普通元年520年侍中・車騎將軍に遷るが、拝命せぬうちに家で卒する

この篇の現代語訳全文について

この書の訳文は、Kindle版・ペーパーバックとして順次刊行しています。当サイトには底本の原文と各篇の要約を置いています。

刊行済みの巻は書籍のトップページに一覧があります。

© AI現代語訳推進委員会