十七史百將傳卷七 魏崔浩 崔浩
要約
崔浩は字を伯深。若くして学を好み、経史から天象・陰陽・諸子百家まで読み尽くし、明元帝の初め学士祭酒となった。
晋の劉裕が姚泓を伐つため道を借りたいと求めると群臣は河の上流を断つべしと言い帝も従おうとした。浩は、西路を塞げば劉裕は北を侵すから水路を貸して西へ入らせ、東へ帰る路を塞いで二虎を闘わせ長久の利を収めよと説いた。帝は群臣の議に従い長孫嵩に防がせたが畔城で朱超石に敗られた。
帝が悔いて劉裕の成否を問うと、浩は姚興が虚名を好み泓は病み衆は叛くから克つは必定と答え、精騎で彭城・壽春を襲うという帝には、西北の二寇が滅びず長孫嵩は劉裕の敵でないから待てと答えた。王猛は苻堅の管仲、慕容恪は暐の霍光、劉裕は司馬德宗の曹操だとも論じた。
宋の武帝が亡くなると帝は洛陽・武牢・滑台を取ろうとした。浩は喪を伐たぬ『春秋』の例を引き、強臣の争いを待てば労せず淮北を収められると説いたが、帝は南伐に意を鋭くし奚斤らを遣わした。城を攻めるか地を切り取るかの議では小城を攻めて克てねば軍の勢いを挫くと言ったが、奚斤らは滑台を攻めて抜けなかった。
太武の側近は浩の正直を忌んでそしり、浩は自邸に帰って疑義のたび召された。謀計に長じ自らを張良になぞらえた。
赫連昌の討伐を群臣が難しとする中、浩だけは熒惑の占いは秦の亡ぶを示し、五星東出は西を伐つに利ありと言った。帝は蒲坂を撃たせ自ら軽騎で都城を掠め還り、のち改めて昌を討ち偽り退くと昌は前進した。風雨が砂を巻き上げ趙倪が向かい風を避けよと言うと、浩は風の向きは人の側にあると叱り、軍を分けて不意を撃てと説き、帝が従うと昌の軍は大いに潰えた。
蠕蠕を撃つ議では朝臣が渋る中で浩だけ賛成した。張深・徐辯が三陰の歳の北伐は必ず敗れると説き群臣も賛同したが、浩は三陰の歳に兵を用いるのは刑を修める義にかない、歳星が月を襲うのは他国に応じ、月が昴を掩うのは天子が旄頭の国を破る占いで、蠕蠕・高車がその族だと述べ、帝は悦んだ。北伐は危ういと咎める者には、蠕蠕を摧かねば南の賊を禦げず、備えなきを掩えば一挙に滅ぼせると答えた。軍が境に入ると蠕蠕は備えず、捕虜と獲物は数百万、高車の降る者は三十余万、南の軍は動けず浩の見込みどおりであった。太武は高車の渠帥に浩を指し、その胸中は武具兵器にも勝り前後の勝利は皆この人が導いたと言った。
南の諸将が兵三万を請うて先に迎え撃とうとすると、浩は南の賊は不測に備えるだけで先には発たず、秋涼しく馬肥ゆるころ撃つのが万全だと言い帝は従った。幽州以南の守備兵を選び船を造る議には、実が無いと知れば敵は喜んで河まで来る、虚声を張って実害を招くとはこれだと言い、天の時が不利な五事を挙げた。帝は衆議に従い杜超を鄴に、司馬楚之らを潁川に屯させ、寇の到来はかえって早まった。
また蠕蠕を討つ議で劉潔が異議を唱えると、浩は北は雪が多く冬は南へ移るから、その時ひそかに軍を出せば必ず出くわすと答えた。帝は軍を四道に分け鹿渾海で会すことにしたが、劉潔が諸将を誤らせ功無く還った。
帝が汾曲で薛永宗の塁を撃つべきか問うと、浩は永宗が陛下の来たのを知らず北風も激しいから急ぎ撃てと言い、帝は従って永宗は潰滅した。
蓋吳が渭北にあり渭水の南を渡るか問われると、浩は蛇を撃つ法はまず頭を破るべきで蓋吳を先に撃てと答えた。帝は従わず南を渡り、蓋吳は北山に入り軍は克つところなく帝は悔いた。
のち人が浩を誣告し、帝は怒って誅した。
孫子はいう、その疲弊に乗ずる、攻めない城がある、天を知り地を知る、まじないを禁じ疑いを去る、備えなき所を攻める、軍を乱して勝ちを引き渡す、声無きに至る、その節は短い、と。浩が二虎を闘わせて長久の利を収めると言い、小城を攻めれば軍の勢いを損なうと言い、五星東出は西を伐つに利ありと言い、風の向きは人の側にあると言い、蠕蠕の備えなきを掩うを請い、虚声は実害を招くと言い、永宗が帝を知らぬゆえ急撃を請い、蛇はまず頭を破るべきだと言ったのが、これである。
この篇の現代語訳全文について
この書の訳文は、Kindle版・ペーパーバックとして順次刊行しています。当サイトには底本の原文と各篇の要約を置いています。
刊行済みの巻は書籍のトップページに一覧があります。