十七史百將傳卷八 隋賀若弼 賀若弼(字は輔伯)
要約
賀若弼は字を輔伯、河南確陽の人である。驍勇で弓馬に巧みで、高熲の薦めで吳州総管として陳を平らげる事を委ねられ、十策を献じた。
開皇九年、伐陳の行軍総管となった。防人の交代のたびに歷陽に旗幟を列ねていたので、陳の人々はのちに備えを設けなくなり、大軍で江を済っても気づかれず、南徐州を襲って抜いた。
蔣山で魯廣達らに進まれて軍は却いたが、彼らが驕り士卒も惰けていると揣り知って殊死の戦いをさせ、大いに破った。北掖門から入るとすでに韓擒が陳叔寶を捕らえていた。
弼は功名が朝臣の右に出ると思い、宰相をもって自ら許していた。楊素が僕射となっても将軍のままであったのを不平として官を免ぜられ、獄に下されて民とされ、爵位を復したが任用されなかった。
突厥が入朝して的に中てたとき、命じられた弼は、赤誠をもって国に奉じているなら的を破るはずだと咒い、一発で中った。
煬帝が東宮のとき三将の優劣を問うと、弼は楊素は猛将で謀将でなく、韓擒は斗将で領将でなく、史萬歲は騎将で大将でないと言い、自ら大将をもって許していた。煬帝が位を嗣ぐと疏んじ、大業三年に誅された。
孫子はいう、用いて之に用いざるを示す、と。防人の交代で敵に備えを設けさせなかったのがこれ。またいう、将、孰れか能あるか、と。三将の優劣を論じたのがこれ。
年表
隋の将、賀若弼(字は輔伯)。河南の人で、若くから慷慨の気と大志を抱き、弓馬に巧みで文章もよくし、当世に重んじられた。高熲の推挙により吳州総管として陳の平定を委ねられ、陳を取る十策を献じた。江沿いの防人の交代をたびたび歷陽に集めて陳側の警戒を麻痺させたうえで渡江し、南徐州を抜き、蔣山で陳の諸将を破って建康に入った。その後は功名を恃んで宰相の地位を望み、楊素が僕射となると不平を顔色に表して免官・下獄に至り、爵位は復されたものの二度と任用されなかった。煬帝の即位後はとりわけ疎まれ、ついに罪に坐して誅された。
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