十七史百將傳卷九 唐·李靖 李靖(字は藥師)
要約
李靖は字を藥師、京兆三原の人である。おじの韓擒虎は、孫子・呉子を論じ合えるのはこの人だけだと嘆じた。
大業の末、高祖のただならぬ志を察して急変を報じようとしたが道が塞がった。高祖が斬ろうとすると、私怨で義士を殺すのかと叫び、秦王がとりなして釈された。
江陵に拠る蕭銑の地を安んぜよとの詔を受けたが峽州で阻まれ、帝は斬らせようとしたが許紹が救った。冉肇則が夔州を侵すと兵八百で屯営を破って肇則を斬り、帝は既往を咎めぬとねぎらった。
銑を図る十策を陳べ、孝恭の行軍長史を攝した。秋の長雨に銑は備えず、諸将も水を待つよう請うたが、李靖は兵機は速さを神とすると言って進んだ。孝恭は文士洪に大敗したが、賊の乱れに乗じて撃ち破り江陵に迫って銑を降した。没収を請う者は退け、諸城は争って下った。
輔公祐が丹陽に拠って反くと、李靖は孝恭の副として討ち、公祐は鎖で江路を断った。諸将は直ちに丹陽を取れと議したが、李靖は、馮惠亮らは持重して待つだけで不意を突けば破れると言った。水陸ともに進んで惠亮らは逃げ去り、公祐も擒にされて江南は平定された。
八年、突厥が太原を侵したときも李靖だけは軍を完うして帰った。突厥の部族が離れ叛くと精騎三千で惡陽嶺に向かい、頡利可汗は孤軍で至るまいと驚いた。李靖は間諜で腹心を離間させ、夜に定襄を襲って破り、可汗は遁れた。頡利が鐵山から内附を請うと、李靖は、詔使が到れば虜は安んじる、一万騎で白道から襲えばよいと言った。牙帳まで七里で気づかれ、一万余級を斬り男女十万を俘にし、逃れた頡利も張寶相に擒にされた。蕭瑀が掠奪をさせたと弾劾したが、帝は、史萬歲は達頭可汗を破ったのに誅された、朕はそうはしないと言い、左光祿大夫に進めた。のち尚書右僕射に遷り、沈着重厚と称された。
吐谷渾が辺境を侵すと、李靖は、老いてもなお一度の遠征に堪えると言い、西海道行軍大總管とされた。諸将は馬が弱って戦えないと議したが、深く入る策を決して積石山を越え、その国を破って伏允は自ら縊れて死んだ。
高甑生が責められた恨みから謀反を告げたが、事実はなく誣罔に問われた。李靖は門を閉ざし賓客を遠ざけた。帝が遼を伐とうとして高麗だけが服していないと言うと、見捨てられないなら病も癒えましょうと答えたが、帝は許さなかった。病が重くなると帝は邸に行幸して涙を流した。薨じた。年七十九。
孫子はいう、兵の情は速さを主とする、乱れればこれを取る、その不意に出る、死間は外に誑りをなす、と。兵機は速さを神と言い、敵の乱れに乗じて撃ち、馮惠亮と頡利を破り、唐儉の使いに乗じて突厥を襲ったのがこれ。
年表
唐の名将、李靖(字は藥師)。京兆三原の人で、書史に通じ、母方のおじ韓擒虎に兵事の論敵と嘆ぜられた。隋末は馬邑の丞であったが、高祖の挙兵の意図を告発しようとして捕らえられ、秦王のとりなしで釈された。のち冉肇則を斬って信を得、蕭銑を図る十策を陳べて江陵の蕭銑を降し、丹陽の輔公祐を破って江南を平定した。太宗の代には定襄道行軍總管として突厥を襲って定襄を取り、さらに不意を突いて頡利可汗の牙帳を撃ち、その滅亡をもたらして陰山以北・大漠までを開いた。晩年は西海道行軍大總管として吐谷渾を破り、高甑生の誣告のあとは門を閉ざして自重し、衛國公として七十九歳で薨じた。「南に吳を平らげ、北に突厥を破り、西に吐谷渾を定めた」と帝に称された、唐初随一の用兵家である。
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