十七史百將傳卷九 唐·郭元振 郭震(字元振)
要約
郭震は字を元振、魏州貴鄉の人。葬れずにいるので借りたいと言う喪服の者に、資錢四十萬を名も問わず與えた。十八で進士に舉げられた。
吐蕃が和を乞い、論欽陵が四鎮の兵を罷め十姓の地を割けと請うと、元振は使者として虜の情を覘って上疏した。ただちに欽陵の意を遏めれば邊の患いは甚だしくなるから策で緩めるべきで、關隴の屯戍は困り盡きている。欽陵には、吐渾の諸部と青海の故地を歸せば俟斤の部落を還そうと報じればよい、と。后は從った。さらに和親の使いを年ごとに發せば配下は怨むと言い、數年の後、吐蕃の君臣は猜み離れて欽陵を誅した。
突厥と吐蕃が涼州を寇すると元振が涼州都督となり、南硤口に和戎城、北の磧に白亭軍を置いて境を千五百里まで拓き、李漢通に屯田させ、粟一斛が數千であった涼州は縑一匹で數十斛と易えるほどになり、夷も夏も畏れ慕った。
西突厥の烏質勒が和を願い、元振が牙帳で事を計ったとき、大雪の中を立ったまま動かず、老いた烏質勒は寒さに堪えず死んだ。子の娑葛は父を殺されたとして襲擊を謀ったが、元振は營に堅く臥し、翌日素服で弔った。娑葛の兵は迫らず、元振は數十日留まり喪を助け、娑葛は義に感じて馬や牛羊を獻じた。
闕啜忠節は娑葛と怨みを交わしたが兵弱く、元振は宿衞に入れ部落を瓜州・沙州に移すことを請うて許された。闕啜が播仙城で出會った周以悌は、ひとりで入朝すれば一介の胡人にすぎないと說き、安西の兵で吐蕃を導いて娑葛を撃てと教え、闕啜は于闐の坎城を撃って黃金を宗楚客に贈った。
元振は上疏した。先年に十姓・四鎮を與えずとも邊が擾されなかったのは吐蕃が國中の亂と疫癘で志を屈したからで、力があれば必ず爭う。忠節は吐蕃の鄉導となろうとしており、吐蕃が志を得れば忠節も賊の掌と股の間に落ちる。吐蕃が立てた俀子らも自ら滅びており、獻は父兄より縁遠い、と。顧みられなかった。
楚客らは馮嘉賓に闕啜を安撫させ、牛師獎を元振に代え、吐蕃を召し力を併せて娑葛を撃つと建議した。娑臘がこの謀を報せ、計舒河で會した闕啜は捕らえられ、嘉賓ら三人は殺され、安西は陷ちて四鎮への路が絕えた。娑葛は元振に書を遺り、楚客らが闕啜の金を受けて撃ち滅ぼそうとするゆえ鬥っている、楚客を斬れと言った。元振が奏すると楚客は異心ありと誣ったので、元振は子の鴻に間道から奏させ歸らなかった。娑葛は赦された。
睿宗が立つと太僕卿となった。發つとき安西の酋長には顔を切り裂いて哭き送る者があり、涼州の者は壺漿で迎えた。玄宗の驪山の講武で元振がにわかに禮を止めるよう奏すると、帝は怒って斬ろうとしたが劉幽求らが諫めて死を赦され新州に流された。開元元年、饒州司馬に起用されたが道中で卒した。
孫子はいう、智者は利と害とを交え考える、親しんでいる者はこれを離間する、敵を來させぬのはこれを害するから、と。四鎮の兵を罷めぬことを請い、吐蕃を離間して欽陵を誅させ、和戎・白亭の二城を置いたのがこれである。
年表
郭震、字は元振、魏州貴鄉の人で、字をもって世に通った。十六で太學生、十八で進士に舉げられ通泉尉となった。吐蕃への使いから還って四鎮の兵を罷めぬよう上疏し、離間の策を献じて欽陵を誅させた。涼州都督としては和戎城・白亭軍を置いて境を千五百里に拓き、屯田によって倉の蓄えを十年ぶんに増やした。西突厥の娑葛には身を危うくしながら弔いの禮を盡くして歸服させたが、宗楚客の讒にあって西土に留まった。睿宗の朝で同中書門下三品に進み、玄宗の驪山の講武で軍容の非を問われて新州に流された。
年表(1件)
- 開元元年713年舊い功を思われて饒州司馬に起用されるが、道中で病んで卒する
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