十七史百將傳卷十 唐王忠嗣 王忠嗣

要約

王忠嗣は華州鄭の人。父の海賓は薛訥の先鋒として戦い、長城堡で諸将が功を媢んで兵を按めたため戦死した。玄宗は九歳で号泣する忠嗣を、去病の遺児だと言って禁中で養った。

蕭嵩の麾下に引かれたが、年若いとして単独で将となることは許されなかった。蕭嵩の入朝に際し、報ずるものが無いと精鋭数百を請い、郁標川の大酋の陣を略めた。

天寶元年、奚の怒皆を討って桑乾河に三たび克ち、突厥では米施可汗の降をうわべだけとみて三部に反間を縦ち、可汗を斬って二城を築いた。これより虜は塞を盗まず、河東節度使を兼ねた。

将となると重厚に構えて辺を安んじ、中国の力を竭くして功名を幸めようとは思わぬと言った。百五十斤の弓は弢に納め、間諜で隙を伺って奇兵で襲った。弓矢にも姓名を記させ、四つの将印を佩びて万里を控制した。

石堡城の計を問われると、吐蕃が国を挙げて守っており釁を待って取りたいと奏した。李林甫はその功を忌んだ。董延光の建言で軍を出したが賞格が無く、李光弼が諫めると、忠嗣は、一城を得ても敵を制するに足らず失っても国に害は無い、数万人の命を一官に易えるに忍びえようかと答えた。延光は克てず、兵を沮んだと訴えた。

安祿山が雄武の築城で兵を留め置こうとすると、忠嗣は会わずに還り、祿山の叛意を上言した。林甫は、太子を奉じたいと云っていると誣告させ、罪は死に当たったが、哥舒翰が官爵で贖い、漢陽太守に貶されて卒した。のち哥舒翰は石堡を抜いたが死亡はほぼ尽きた。

朔方では互市で馬の値を高く償ったので諸蕃が争って市いに来、唐軍は精鋭となった。

孫子はいう、進みて名を求めず、退きて罪を避けず、城に攻めざる所あり、と。功名を幸めなかったこと、万人の命を一官に易えなかったこと、石堡城の言が、これである。

年表

唐の将、王忠嗣。華州鄭の人で、父の海賓は吐蕃との長城堡の戦いで戦死した。九歳で玄宗に見(まみ)え、「去病の遺児」と称されて禁中に養われ、名を賜った。蕭嵩の麾下で吐蕃の陣を襲って功を立て、のち奚や突厥を破って北辺を経略し、大同・靜邊の二城を築いた。河西・隴右節度使として朔方・河東をも兼ね、四つの将印を佩びて万里を控制したが、士を惜しんで石堡城の攻略に反対し、董延光に兵を阻んだと訴えられた。李林甫の誣告で太子に与したとされて死罪に当てられ、哥舒翰の助命によって漢陽太守に貶され、そのまま卒した。当世は名将と称した。

年表(1件)
  • 天寶元年742年北のかた奚の怒皆を討ち、桑乾河に戦って三たび遇い三たび勝つ

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