三藩紀事本末益藩、湖東を騒がす(傅・掲を付す)(益藩擾湖東附傅、揭)
要約
益王由本は建昌に封ぜられていた。両都が陥ちると郡紳が挙兵を勧め、儀賓の鄧思銘が学生の兵を建てる議を立てた。戦守は年若い王に代わり永寧王慈炎と羅川王が主った。羅川王は艾命新・艾南英と三十六人を募り、順治二年乙酉六月、義勇七、八千を得た。
王が頼んだ保寧王は密かに我が将の王体忠と内応を約していた。王は建昌を経た趙印選の象兵を留めて戦わせたが、保寧王が陣後から火箭で象兵を傷つけ、軍は潰えた。王は奔り、のち福州で唐王に帰属したが、福州が破れて捕えられ殺された。
永寧王は広東に入り、蕭升・閻総と建昌を復し、撫州・進賢を抜いた。羅川王も来合したが、粤兵との争いを止めに出て流れ矢に中って卒した。永寧王は糧が続かず進賢を棄て、王得仁に囲まれ、退く途中で捕えられ死んだ。
甲申の変に際し、もと福寧州知州の掲重熙は勤王の兵を挙げ、のち湖東で挙兵した。益王に謁して省会進出を請うたが実現せず、体忠に囲まれた建昌を援けて許湾で敗れた。唐王に用いられて湖東の兵事を執り、金渓を克し撫州を復して巡撫となった。傅鼎銓も宜黄を復し楽安に駐まった。
五年戊子、金声桓が叛いて二人を迎えたが、両人は閩の事を請うた。重熙は永明王に江西の兵を総督させられたが、南昌は破れ、程郷で大敗した。金・王の死後は張自盛らが帰順し兵は集まった。七年庚寅、重熙は閩境で囲まれたが偽って敗走し、伏兵で挟み撃ちにして大勝、諸郡邑を巡ってみな下し、撫州まで進んだ。八年辛卯、鼎銓は広信で捕えられ、降らず八月五日に殺された。重熙は百丈磜の曹大鎬のもとへ帰ったが空営のみで、囲まれて捕えられ、十一月三日に建寧で戮された。まもなく曹大鎬も敗れ、江西の兵は尽きた。
年表
建昌に封ぜられた益王由本が、鄧思銘・羅川王・永寧王慈炎らに擁されて湖東で挙兵し、艾南英らと歃血して義勇数千を集めたが、保寧王の内応で象兵が潰え、王は福州で捕らえられて死ぬ。永寧王も撫州・建昌を一度は復したものの、王得仁に追われて敗死する。あわせて掲重熙・傅鼎銓が甲申以来湖東で兵を起こし、金声桓の叛にも関わりつつ転戦したが、順治八年に相次いで捕らえられて殺され、餘応桂も没して江西の兵が尽きるまでを附記する。
年表(2件)
- 順治二年乙酉(1645年)保寧王の内応で益王軍が潰え、永寧王も撫州を失って敗死する
- 揭重熙・傅鼎銓の湖東経営(甲申~辛卯)二人が湖東で転戦し順治八年に殺され江西の兵が尽きる
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