三藩紀事本末何騰蛟、楚に殉ずる(何騰蛟殉楚)
要約
崇禎癸未、賊を破って名を知られた何騰蛟が湖広を巡撫した。当時、武昌に屯する左良玉は専横であった。
順治元年五月、福王が江南で自立し、詔に異言のあった良玉と争い礼どおり開読させた。八月、五省の軍務を総督した。
二年、良玉が東下し、応じなかった騰蛟は良玉の部将に擁し去られたが、漢陽で水に投じ漁船に救われた。長沙で属吏を集めて盟い、唐王が立つと委任は篤かった。李自成の死後その残党を招いて兵二十余万を増したが功を語らず、東閣大学士・定興伯とされ、十三鎮を湖北に開いた。
三年正月、李赤心が湖北で敗れ騰蛟の威望は損なわれた。唐王が汀州で死に、永明王が立つと武英殿大学士とされた。
四年、大軍が長沙に迫ると騰蛟は衡州・永州・白牙市に走り、十三鎮はみな盗賊化した。大帥の劉承胤も騰蛟を忌んだ。八月、武岡が破れ、騰蛟は趙印選らを率いて桂林を助けた。
五年正月、騰蛟は太帥・世侯を加えられた。二月、郝永忠らの桂林での掠奪を偵知した大軍が北門に迫ったが、騰蛟は焦璉・胡一青と門を分けて防ぎ退けた。三月、李成棟が叛いて大軍が引き返すと、騰蛟らは全州・永州・宝慶・衡州・常徳を回復した。常徳を赤心に譲らされた馬進忠は怒って城を焼いて走り、諸将も空城のまま走った。
六年正月、騰蛟は空城の湘潭に入ったが、大軍は旧部将徐勇を入らせた。勧降に従わず、絶食七日でも死なず殺された。神魚井は騰蛟の生誕時に五色の魚が満ち、害に遭うと空になった。
年表
崇禎十六年に湖広巡撫に抜擢された何騰蛟が、左良玉の専横に抗し、左軍の東下に連れ去られながら脱して長沙に拠り、李自成の残党である郝揺旗・李錦らを招撫して十三鎮を編成し、南明の柱石となるまでを記す。しかし諸将は驕慢で命に従わず、劉承胤は騰蛟の権を奪おうとし、清軍の南下で長沙・衡州・永州を相次いで失った。順治五年には全州・永州・常徳などを一時回復したが、李赤心の入城をめぐる馬進忠の怒りで諸将は城を捨てて散った。順治六年正月、空城の湘潭に入ったところを旧部将の徐勇に捕えられ、降を拒んで絶食のうえ殺された。
年表(7件)
- 崇禎十六年癸未1643年右僉都御史として湖広を巡撫し、左良玉の専横に臨む
- 順治元年甲申1644年良玉に福王の詔を開読させ、まもなく五省の軍務を総督する
- 順治二年乙酉1645年左軍から脱して長沙に拠り、闖賊の残党を招いて十三鎮を置く
- 順治三年丙戌1646年李赤心が湖北で敗れ、唐王も没して永明王のもとで大学士となる
- 順治四年丁亥1647年長沙・衡州・永州を失い、諸将に擁され各地を転々とする
- 順治五年戊子1648年全州を回復するが、常徳の譲渡で諸将が城を捨てて走る
- 順治六年己丑1649年湘潭で徐勇に捕えられ、降を拒んで殺される
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