三藩紀事本末孫・李の反目(孫、李構隙)

要約

崇禎甲申、蜀に僣号した張献忠を、順治三年、粛王が西征して殺すと、その党の孫可望・李定国・劉文秀・艾能奇・白文選・馮双礼らは重慶を奪い曾英を殺した。

四年春、可望は貴州に入り、沙定洲を蛇花口で破って雲南を取った。楊畏知は捕えられて降り、沐天波も降った。可望は平東王と称して僣号を謀ったが、定国・文秀らも王を称して下らなかった。

六年春、可望が演武場で定国を杖打ちにし、孫・李の隙が始まった。定国は沙定洲を斬って兵が強くなり、可望の僣号の志は挫けた。帰順を求めて畏知を粤に遣わすと、胡執恭が勅を偽って秦王に冊封した。厳起恒・金堡らは反対して景国公に封じる議となり、堵胤錫も空の勅で平遼王に改封したが、可望は受けなかった。厳起恒は楊鼎和・劉堯珍と抗疏して力争し、議は止んだ。

七年十一月、広州・桂林が下って王は南寧に走り、可望を冀王に封じたが受けなかった。艾能奇の衆を併せ可望はいよいよ強くなった。

八年、可望は賀九儀らに「秦」の封を阻んだ厳起恒・楊鼎和らを殺させ、真に秦王に封じられた。誅を請うた畏知も捕えられ殺され、文秀はいよいよ恨んだ。

九年二月、可望は王を安隆に遷した。定国は孔有徳を禦いで靖州・沅州・武岡を破り桂林に入ったが、可望の約束に稟けなくなった。衡州で敗れて沅に召されると殺意を覚って行かず粤西に入り、双礼も心を定国に傾けた。

十年、可望は定国を追ったが我が兵に敗れ、黔の明の宗室を殺した。王は呉貞毓と謀って定国を晋王に封じて迎えを求めたが、定国は起たず、馬吉翔が可望に告げた。

十一年、可望は安隆に首謀者を索めて貞毓を拷問し、十八人のうち張鐫らは凌遅、貞毓は自尽を賜った。可望はなお定国の妻子を養い、定国も高州を取った。

十三年、定国は新会で大敗して南寧に奔った。可望は文選に王を黔へ移させたが、文選は「西府を待て」と告げ、定国が至ると王を奉じ滇に趨いた。文秀も定国を迎え、王は文秀を蜀王、文選を鞏昌王に封じた。

十四年春、王が可望の妻子を送ると可望は反し、文選を大将とした。九月、定国・文秀と交水を挟んで軍したが、文選は定国に奔り、馬惟興らも内応して全軍は瓦解した。可望は長沙に走り洪承疇の軍前に降り、双礼も文秀に降った。

十五年春正月、可望は京師に至って義王に封じられた。

年表

張献忠の死後、その余党である孫可望・李定国・劉文秀・白文選らが雲南・貴州を押さえ、永明王の朝廷を擁しながら互いに主導権を争った経緯を記す。可望は「秦王」の封号に固執して厳起恒・楊畏知ら反対する明臣を次々に殺し、定国との対立を深めていった。安隆での呉貞毓ら十八人の獄を経て可望はついに反したが、交水の戦いで部将に裏切られて壊滅し、長沙で清に降って義王に封じられた。崇禎十七年から順治十五年までの十五年間。

年表(12件)

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