三藩紀事本末永明王、緬に入る(永明入緬)
要約
順治十六年正月、永明王は永昌へ移り、二月、李定国は靳統武の兵四千に護送させた。二十八日銅璧関に至ると統武は去り、緬人は従者の武器を捨てさせて入関を許した。昆明の薛大観父子は入緬を聞いて黒龍潭に投身した。三月、河岸の舟は四艘で、陸路を回った従者は途中で多く襲い殺された。二十四日阿瓦に至り、冊宝を偽物と疑われたが沐国公の印で証した。遅れて着いた一行は内外呼応の企てとされ、緬兵に囲まれ多く殺された。五月四日、緬王は龍舟で王を迎え、八日、十間の家が建てられ竹を城とした。八月、緬王は諸国に誇示しようと沐天波を裸足で諸蛮の先頭に立たせ、臣下の礼をとらせた。九月、緬人は稲穀を進めて貧者に給した。
十七年七月、緬王はまた天波に河を渡らせ、漢兵を関に近づけぬ勅を乞うた。九月、李定国は王を迎えようと上疏したが、前後三十余疏は届かなかった。馬吉翔は李国泰と結んで権を専らにし、王が投げ下ろした御璽を砕いて諸臣に分け与えた。
十八年五月、任国璽は「時事三不可解」を上疏して翔・泰の専権を責め、王祖望・鄧居詔も弾劾したが、王はどうにもできなかった。これより先の二月、白文選は緬人に王を送り出させよと密奏したが浮橋の計は察知され、三月、趙明監らが世子を奉じて脱する謀も漏れた。
七月二十三日、緬の酋長は兄を殺して自立し、随従の文武諸臣を河向こうへ渡らせ、呪いの水を飲ませて次々に殺した。沐天波・馬吉翔・任国璽・李国泰らが死んだ。さらに兵三千が王の居所を囲んで人を殺し財物を奪い、縊死する者は数知れなかった。王は沐国公の部屋へ移され、一同は三日籠もって食も絶えた。二十五日、緬人は銀・米を進上した。
年表
永明王が雲南から永昌・騰越を経て銅璧関を越え、阿瓦(アヴァ)に入って緬に身を寄せてからの三年間を記す。陸路を取った従臣は途中で襲われ、緬王にも包囲されて多くが殺され、王の一行は竹の城に押し込められた。緬中では馬吉翔と李国泰が権を専らにし、任国璽・王祖望らの弾劾も効かず、王は御璽を投げ下ろすほど侮られた。白文選の迎えの計も錦衣衛の世子脱出の謀も露見して失敗し、順治十八年七月には緬の新酋長が沐天波・馬吉翔以下の文武諸臣をことごとく殺し、宮中の婦女も相次いで縊死した。
年表(3件)
- 順治十六年己亥(1659年)王が永昌から緬に入り、阿瓦で冊宝を照合されて迎えられる
- 順治十七年庚子(1660年)定国の上疏が届かず、馬吉翔・李国泰が権を専らにする
- 順治十八年辛丑(1661年)緬の新酋長が沐天波・馬吉翔ら随従の諸臣を殺す
この篇の現代語訳全文について
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