三藩紀事本末蜀の乱(蜀亂)
要約
順治元年、張献忠が蜀を占拠したが遵義は陥ちず、総督樊一蘅と督師王応熊はそこに拠り旧将に檄を飛ばした。馬乾が重慶を回復し、一蘅は甘良臣を総統に潰兵を合わせ三万を得た。二年三月、敘州を回復したが、孫可望と対峙して兵糧が尽き退いた。曾英らは大海・占春らと挟撃して劉文秀の重慶攻めを破り、一蘅は納渓から諸方を指図した。
三年春、川南を取られた献忠は憤って民を屠り、金銀を沈め宮室を焼いた。反攻は連敗し、七月、賊は成都を捨てて順慶へ走った。川兵を殺そうとする献忠を恐れた劉進忠が降って所在を告げ、十二月、王師は献忠を塩亭で殺した。曾英は可望の急襲に敗死し、応熊も畢節衛で死んだ。
四年、大軍が蜀に入ると諸将は瓦解し川北は版図に入った。王師が兵糧尽きて返すと王祥らは保寧・順慶に入り、一蘅は江上で蜀回収を図った。諸将は各地に拠り、官が民より多く、一蘅の命は敘州一郡に及ぶのみだった。
五年、容藩は天下兵馬副元帥と称したが、永明王の無事が伝わり罪を鳴らされ、石砫を攻めて敗れ雲陽で死んだ。乾徳は袁韜・武大定を腹心とし楊展を韜と結ばせたうえ、韜に展を殺させたため諸将の心は離れ、乾徳の敗北を招いた。可望は展の冤を訴えて蜀を図り、王祥を破って袁・武を捕らえ、乾徳は投身した。三譚も降り、占春・大海は王師に降って文秀が蜀を占拠した。
七年正月、文秀は雲南へ帰り、三月の南征で文選・鎮国は敗れ、王師は嘉定に入って范文光・天顔が死に、九月に一蘅も死んだ。九年、文秀・文選の保寧攻めは象陣を破られた。十六年、譚弘・譚詣も降って献忠の残党は尽きた。巴東の郝揺旗・袁宗弟・劉二虎も十八年からの討伐で、康熙二年、巫山に大潰して二虎は縊死、揺旗・宗弟も捕らえられ蜀は平定された。
年表
張献忠が四川全土を占拠した後、遵義に拠った樊一蘅・王応熊が旧将を糾合して反撃し、楊展・曾英・王祥・袁韜らが各地を回復していく経過を追う。献忠が塩亭で討たれた後も、蜀の諸将は李乾徳らの策謀で互いに殺し合い、孫可望・劉文秀の侵攻を受けて瓦解する。一蘅・范文光・詹天顔の死をもって蜀中の将士は尽き、譚弘・譚詣の帰順、さらに李自成の残党郝揺旗・袁宗弟・劉二虎の掃討を経て、順治元年から康熙二年までに蜀は平定される。
年表(9件)
- 順治元年甲申(1644年)樊一蘅と王応熊が遵義で檄を飛ばし旧将を集め三万を得る
- 順治二年乙酉(1645年)楊展らが敘州を回復し曾英が重慶で賊兵数万を破る
- 順治三年丙戌(1646年)献忠が成都を捨てて走り十二月に塩亭で討たれる
- 順治四年丁亥(1647年)清軍が蜀に入り諸将は各地に割拠して一蘅の令が行われず
- 順治五年戊子(1648年)李乾徳の策で楊展が殺され袁韜・武大定も敗れ文秀が蜀を占拠
- 順治七年庚寅(1650年)清軍が嘉定に入り范文光・詹天顔が死に九月に一蘅も山中で死す
- 順治九年壬辰(1652年)文秀・文選が保寧を攻めるも清軍が象陣を破る
- 順治十六年己亥(1659年)譚弘・譚詣が帰順し献忠残党の蜀荒らしが尽きる
- その後の平定康熙二年までに劉二虎が死に郝揺旗・袁宗弟も捕らえられ蜀が平定される
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