清史紀事本末遼藩の建国(遼藩建国)

要約

明の神宗万暦四十四年春正月、代善らの勧めで努爾哈赤は位に即き、尊号を覆育列国英明皇帝、国号を満洲、建元して天命とした。七月、扈爾漢らが薩哈連部を侵して兀爾簡河南北の三十六寨を取り、黒龍江を渡って十一寨を加え、路長四十八人を招服した。四十五年、東海沿岸の諸部を収め、島に拠る者も小舟で取った。

四十六年四月、祖父の殺害・葉赫の援助・辺民の越境と十人の擅殺・婚約の女の改嫁・耕作の駆逐・使の侮り・哈達の服従強制の七大恨をもって師に誓った。二路に分けて東州・馬根単を取り、撫順の李永芳が降り、台堡寨五百余を下し、追撃の張承蔭らは大風に乗じた攻撃で戦死した。五月に十一堡を陥れ、六月に李維翰の和議を許さず、七月に清河城で鄒儲賢・張斾と兵一万が殉じた。

四十七年正月、葉赫を征して克亦特城・粘罕寨を取り、二月、遼東経略の楊鎬は兵を四路に分け、都城に進むと約した。三月、杜松は薩爾滸山に屯して界凡城を囲んだが、吉林厓の兵と援兵に挟まれ陣没した。尚間厓の馬林は身一つで免れ、龔念遂は戦死、潘宗顔は全軍没し、葉赫兵は遁げた。劉綎は阿布・達里の間で挟撃されて戦死し、康応乾の兵と朝鮮兵二万は没し、姜弘立は降り、楊鎬は軍を返した。六月に開原が落ちて馬林らが死に、七月に鉄嶺で喩成名らが死に、八月に葉赫の二城が落ちて金台吉は屈せず死に、布揚古が降って葉赫国は滅んだ。

泰昌元年、懿路・蒲河を侵し、界凡から撒爾湖に遷った。天啓元年、奉集堡を攻略し、瀋陽では偽りの敗走に誘われた賀世賢が尤世功らと陣没し城は陥ち、四川兵二万を渾河北で殲滅し、白塔鋪の李秉誠らを破り、渡河して董仲貴らを囲んで戦死させた。遼陽では袁応泰が太子河の水を壕に注いだが城は破れ、焼身して死に、遼河以東の七十余城が降った。明・朝鮮・蒙古と接する要地の遼陽に遷都を議した。七月、毛文龍が皮島に拠って鎮江城を取り、内応の陳良策は佟養真を捕らえ、子の豊年ら六十人を殺して降り、湯站・険山の二堡も投じ、民を内地に遷させた。

二年正月、西平堡で羅一貫・高邦佐が死に、孫得功ら四十余の堡官が降り、熊廷弼・王化貞は蓄えを焼いて山海関に入り、義州も陥ち、二人は死罪に論じられた。二月に兀魯特部の明安ら三千余戸が帰附、三月に東京へ遷都した。三年、喀爾喀の拉巴西らが帰附し、扎魯特部の昂安父子を殺し、四年、渾発を侵した文龍の兵を蘇爾東が破り、八月に楞額礼・呉善が皮島を襲って蓄えを焼いた。五年、旅順口城を毀ち、瀋陽に遷って盛京と名づけ、瓦喀部・虎爾哈を征し、科爾沁を援けて察哈爾を退けた。六月に文龍が耀州を攻めて退き、八月は寧遠・山海関二路の兵が耀州で大敗し、文龍も海州の張屯寨を落とせず、六年正月、寧遠では袁崇煥・満桂が籠城し、西洋の巨砲で囲みは解け、覚華の糧を焼いて還り、二十五歳で兵を用いて以来勝たぬことなく、寧遠一城だけ下せぬのを不快とした。四月に喀爾喀を親征し巴林の囊奴克を斃し、五月に文龍が鞍山駅・撒爾湖を侵したが落とせず、八月、靉雞堡の行在で殂した。年六十八、福陵に葬り、武皇帝と追諡、のち高皇帝、廟号は太祖。

年表

努爾哈赤が明神宗万暦四十四年(1616年)に位に即いて覆育列国英明皇帝と号し、国号を満洲、建元を天命として国を建ててから、天啓六年(1626年)に瀋陽の靉雞堡で殂するまでを扱う。万暦四十六年、七大恨をもって師に誓い撫順を陥れて明と開戦し、翌年の薩爾滸の戦いで杜松・馬林・劉綎ら明の四路の大軍を各個に撃破、続いて開原・鉄嶺を落として葉赫を滅ぼした。天啓元年には瀋陽・遼陽を陥れて遼河以東の七十余城を収め、赫図阿喇から東京、さらに盛京(瀋陽)へと都を遷す。西平堡・広寧を取り、蒙古諸部の帰附を得る一方、毛文龍の皮島との攻防が続いた。天啓六年、寧遠城で袁崇煥の西洋砲に阻まれて初めて敗れ、同年八月に六十八歳で没した。

年表(11件)

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  • 第1.0版(2026-09-27) 初版
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