清史紀事本末鴻博・経学等の諸特科(鴻博経学諸特科)

要約

康熙十七年春正月、博学弘儒を挙げ顧問・著作の任に備えよと詔した。明の遺臣がなお故国を思うので、恩礼で招こうと学行・文詞に優れた士を挙げさせた。

十八年春三月、体仁閣で「璿璣玉衡賦」「省耕詩」で親試した。遺老は身を隠したが、逸民を自任する者は争って参じ、薦められた者は百四十三人、来なかったのは杜越・魏禧・傅山ら六人。及第は五十人、彭孫遹・朱彝尊・湯斌らが一等、施閏章・毛奇齢らが二等、みな翰林院の官で『明史』を編纂した。授官が優遇され「野翰林」の名が生じた。のち高士奇の「三不如」の説で帝の意も衰え、唐の李林甫の「野に遺賢無し」と異ならぬといわれた。

雍正十一年夏四月、督撫らに博学弘詞を薦挙させたが、文字の獄が頻りで学者は恐懼し二年余り応ずる者がなく、李紱が保挙して褫官となって以来推薦者も出ず、この盛典は一代挙行されなかった。

十三年冬十一月、嗣いだ高宗は一年以内に京師へ集めよと催した。

乾隆元年秋九月、保和殿で百七十六人を御試し十五人を取り、劉綸ら一等に編修、陳兆崙ら二等に検討、楊度汪らに庶吉士を授けた。二年、体仁殿で遅参の四人を補試し、十四年、経学の士を選挙させ、十六年、呉鼎・梁錫璵に国子監司業、来京できぬ陳祖範・顧棟高にも職銜を与えた。

按ずるに、天下が明を思って安んじぬのに、聖祖が宏博の科と明史館で遺民を清職と空名に位置づけると国中は落ち着いた。高宗も二度の特科を挙げ『四庫全書』館を開いて偽学を提唱し、士人は無用の学に習い廉恥は失われた。ただし一代の文物は鴻博の諸儒の筆墨が鼓吹した力が大きく、漢人に君を尊び親しむ情誼を湧かせた。両帝が文で民族を柔らげた道は得ていた。

年表

清朝が博学弘儒(博学鴻詞)・経学の特科を設けて士人を招き寄せた経緯を、康熙十七年(1678年)の詔から乾隆十六年(1751年)の経学保挙まで扱う。聖祖は明の遺臣の人心を収めるために博学弘儒を挙げさせ、翌年体仁閣で親試して彭孫遹・朱彝尊・湯斌ら五十人を採り、『明史』の編纂に当たらせた。世宗も雍正十一年に博学弘詞を薦挙させたが、文字の獄が相次いだため応ずる者なく、一代を通じて挙行されずに終わった。高宗が雍正十三年に催促の詔を下し、乾隆元年・二年の二度の試で劉綸・杭世駿らを得、さらに乾隆十四年以降は呉鼎・梁錫璵・陳祖範・顧棟高ら経学の士を挙げた。編者は、両帝が文をもって民族を柔らげた策が功を奏したと評している。

年表(8件)

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  • 第1.0版(2026-09-27) 初版
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