清史紀事本末雍正帝の英明と明察(雍正英察)

要約

雍正元年春正月、諭旨十一道を頒って督撫以下の文武を訓戒した。腐敗の極まるのを見て即位早々紀綱を粛めた。職に堪えぬ翰林・詹事を退け、督撫に幕客の姓名を報告させ、山西・陝西の楽籍を除いて良民とし、旗人の横暴に直隷巡撫李維鈞へ密奏させ、孔子の先祖に王爵を加え、隆科多らを明史の監修とし、湖南に試験場を建て、律例を編纂させ、惰民の籍を除き、天主堂を改めて宣教師を澳門に落ち着かせた。八月、立太子を宣諭し、諸子の争いの弊から儲位を密かに定める法を創り、弘暦の名を封じて「正大光明」の扁額の裏に置かせ、一代の家法とした。

二年、満洲人の断筋の刑は別に具奏せよと諭し、『聖諭広訓』を頒ち、『大清会典』を続纂し、大都市に普済堂を設け、宗学・覚羅学と八旗の官学で宗室・八旗の子弟を教えた。貴族の教育はこれより始まる。闕里の孔子廟が雷火で焼けて修復させ、官有地二百余頃に井田を立てて八旗の無職百戸に各百畝を分かち与えた。捐納の例を停め、山西の丁銀を田畝に割り入れ、前明の宗室朱之璉を一等侯に封じて明の諸陵に祭告させ、葬儀の演芸を厳禁した。

三年、固安県の官有地を井田とし、合璧・連珠を史館に下し、杭州府の海塘を修め、蘇州・松江の漕糧を減らし、台湾の生蕃が帰化した。允祥らの水利・営田の三か条を行わせ、孔子の諱は「邱」と改め「期」と読ませた。

四年、制銭を私かに毀す弊を防ぐため黄銅の器皿を厳禁し、雲南の地丁を畝内に割り入れた。田文鏡が十三穂の嘉禾を奏進すると民のために尽くしてこそ天の和を召すと褒め、黄河が三旬余り澄んだので京内外の官に一級を加えた。

五年、会試を三月に改め、閩督高其倬の請いで海禁を開いた。奴隸のごとく役された徽州の伴儅、寧国の世僕も、証文の無い者を世僕と呼ぶを厳禁とした。岳鍾琪が建昌・冤山の蕃人を撫して叙功し、瀛台の射比べに武挙人は驚き服した。六年一度の抜擢の選考を命じ、各省の丁銀も田畝に割り入れた。

六年、安南に旧境四十里を賜り返した。高其倬が百二十里を取り返せと奏したが安南は承知せず、鄂爾泰が八十里を返させてもなお訴え、勅諭に国王が謝したのを嘉したのである。越巂衛の蕃民ら内附し、善政第一として田文鏡を河東総督とし、福建・広東の訛りのため正音書院で官話を学ばせた。

七年、雲南の卿雲を鄂爾泰が報じて阿思哈尼哈番を加えられた。司道の祝賀の中、大理の令の劉某だけが「目がかすんで慶雲が見えぬ」といい、鄂爾泰は長く黙り込んだ。河に功のあった靳輔・斉蘇勒の祠を建てさせ、広東の蜑戸を陸に上がらせ保甲に入れた。

八年、鳳凰・卿雲が奏され、丐戸の籍を除いて民に列し、棚民も保甲に入れ、黄河が澄み、京師の地震は一か月余りに及んだ。冬十月、白雲観の道人賈士芳を殺した。宮中で病を治療したが、経呪に「天地は我が主宰を聴き、鬼神は我が駆使に従う」の語があり、責めてもなお法術で崇りをなした。験のあった道人婁近垣は四十九日祈祷して患いを除き妙応真人とされ、士芳の親族の男十六以上は斬られた。十二月、煙草を禁じ、吸う者と売る者を枷と杖、再犯を充軍とした。阿片もイギリスから輸入され民間に吸う者が現れた。

九年、広東の生黎が内附し、旱で刑獄を整理し日食。十年も旱で刑獄を整理し、江南で大風・海嘯、景陵の瑞芝が奏された。十一年、諸省に書院を設立させ瑞麟が奏された。また刊本で胡・虜・夷・狄を空欄にし夷を彝、虜を鹵と改めるを大不敬の律で禁じた。忌み避けるのは満漢の別に拘泥し君臣の義に暗いのだと帝はいった。十二年、元旦の立春の雪を天の心の喜びだと喜び、河南学政兪鴻図は賄賂を受けて誅に伏した。

十三年、卿雲・麒麟が奏され生員が軍籍で糧を食むを禁じ、烈婦を表彰する例を停めた。秋八月、帝が崩じた。寿は五十八、諡は憲、廟号は世宗、泰陵に葬り、弘暦が嗣いで允禄・允礼・鄂爾泰・張廷玉が輔政した。西苑の道士張太虚らを追い払い、内監には内外に言を伝えるな違えば死罪と諭した。崩御の日、鄂爾泰は鞍も無い馬で駆けつけ禁中に七昼夜泊まったので、大行皇帝が刺されたという説が紛々と起こったのである。

編者曰く。世宗は天を敬い祥瑞を好んだ。藩邸で諸子が術士を養い太子を陥れるのを目にし、天の加護で大統を継いで諸藩を滅ぼした。志が満ちると長生を望んで道を学び、李衛・田文鏡の輩が賈士芳・婁近垣らを供奉させた。祈祷の祠が林立し、欽天監や大官は連珠・合璧、卿雲・嘉禾・麒麟・鳳凰、黄河の澄むことを奏して帝意に迎合した。世宗は外に謙虚を示しながら内心喜び、賈士芳を戮した後もなお張太虚らが侍った。群臣は猜疑の罪で臣下を戮し辱めるのを見慣れ、阿諛して発言しなかった。金石の薬で鼎湖に龍が昇り、高宗が即位して西苑の道士を追い払った。在位十三年、兵を用い財を斂め神仙の土木まで加えて海内を疲らせたが、大権が手中にあって政が下に移らず、英邁剛毅さは漢の武帝に劣らぬから始皇帝の跡は踏まなかった。後嗣が軟弱で母后に制せられ、義和神拳・紅灯照が濫觴となって強鄰の怒りに触れ、両宮は塵を蒙った。浅薄な法は子孫の常法となる。慎まずにおられようか。

年表

世宗雍正帝の一代十三年(1723年から1735年まで)の内政と、その英察が晩年に神仙・祥瑞へ傾いていった経緯を記す。即位の年に諭旨十一道を頒って紀綱を粛正し、儲位を密かに定める法を創って弘暦の名を「正大光明」の扁額の裏に納めた。楽籍・惰民・世僕・蜑戸・丐戸の賤籍を除き、丁銀を田畝に割り入れ、井田を設け、宗学・官学や直省の書院を立てるなど、制度の整備に努めた。他方で田文鏡・鄂爾泰らが嘉禾・卿雲・黄河澄清・麒麟の瑞を競って奏報し、帝は賈士芳・婁近垣ら道士を宮中に入れた。雍正十三年八月に五十八で崩じ、弘暦が嗣いで道士を追い払ったが、編者はその英邁剛毅を漢武帝・明世宗に比べつつ神仙への傾斜を戒めている。

年表(13件)
  • 世宗
  • 雍正元年(1723年)諭旨十一道を頒って綱紀を粛正し弘暦の名を密封して儲位を定める
  • 二年(1724年)『聖諭広訓』を頒ち宗学・八旗官学を設け井田を立てて無職の旗人に耕させる
  • 三年(1725年)怡親王允祥らが直隷の水利・営田三か条を陳奏し議して行わせる
  • 四年(1726年)黄銅器皿の禁を厳しくし雲南の地丁を畝内に割り入れて徴収させる
  • 五年(1727年)海禁をふたたび開き徽州の伴儅・寧国の世僕の称を永く厳禁する
  • 雍正六年(1728年)安南に旧境四十里を賜り返し田文鏡を河東総督に推す
  • 七年(1729年)広東の蜑戸の籍を除いて陸に上がらせ保甲に編入する
  • 八年(1730年)白雲観の道人賈士芳を殺し婁近垣を妙応真人に封じ煙草の禁を頒つ
  • 九年(1731年)広東の生黎が内附し旱により刑部に刑獄を整理させる
  • 十年(1732年)京師の旱で刑獄を整理し景陵の宝城に瑞芝が生じたと奏される
  • 十一年(1733年)直轄の諸省に書院を設立させ胡・虜・夷・狄の字を避けることを禁ずる
  • 十二年(1734年)河南学政兪鴻図が賄賂を受けて私を営み誅に伏す
  • 十三年(1735年)秋八月に帝が五十八で崩じ弘暦が嗣位して西苑の道士を追い払う

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  • 第1.0版(2026-09-27) 初版
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