清史紀事本末湘軍陸師の編制(湘軍陸師之編制)

要約

咸豊二年冬十一月、喪中の侍郎曾国藩に湖南の団練を協力処理させた。さきに道光二十四年、新寧の挙人江忠源は広西に接して盗賊の多い郷里に乱の兆しを見て兵法で子弟を編成した。これが湖南の団練の始まりである。二十七年秋、傜民の雷再浩が乱を起こすと、忠源は郷民を率いて巣窟を衝き捕らえた。咸豊元年三月、洪秀全が金田から象州へ走ると賽尚阿は忠源を軍前に召し、忠源は郷勇五百人を募って楚勇と号し、官兵が進まぬ中で敵営に迫り数百の首を斬った。正規兵は妬んで救わず陥れ、忠源は病で帰り、官兵は行く先で姦淫・掠奪・放火・殺害を重ね、民は憎んで敵に通じ蜂起した。

国藩が命を受けたころ湘郷には練局が立ち、諸生の羅沢南・王鑫が名を知られ、巡撫張亮基は二人に一営ずつ募らせて湘勇と号し、国藩に主宰を請うた。国藩は母の喪と書生は兵を知らぬとして辞したが、武昌陥落で湖南が震撼すると長沙に至り上奏した。団練の難は資金にあり、湖南は行伍が空で兵を練るのが要務である、賊を見れば逃げ崩れ大砲・烏銃で遠く撃つばかりなのは胆も技もないからだ、と。また串子会・紅黒会・辺銭会・香会が衡州・永州・桂陽・宝慶・靖州の万山に育ち、役人が覆い隠すため法も官も恐れぬ気風を生んだ、盟を結んだ者は王命を請うて即刻処刑させよと請うた。

手続きを経ず捕らえては重刑に処し、十旬に二百余名を殺して「曾剃頭」と呼ばれたが意に介さなかった。十二月、官兵を廃して士人に山地の農民を率いさせ、戚継光の書を変通して三百六十人を一営とし、中営は羅沢南、左営は王鑫、右営は鄒寿璋、塔斉布が二営、周鳳山・儲玫躬が各二営、曾国葆が一営を将った。これが湘軍陸師の編制の始まりで、六千人に拡充し忠源の兵と合わせ一万の義師としようとした。

四年春三月、総督呉文鎔が黄州で敗死したと聞き、営制を改めて塔斉布ら八人に統率させ、水師と合わせ一万七千人で東へ下った。営制は営官一人に四哨、親兵六隊七十二人、一哨百八人で四哨四百三十二人、合わせて五百四人、長夫百八十名を加えて定員六百八十五人。行軍は日に三、四十里、夜明けに発し申の刻前に休んで壕と牆で営塁を築き、夜警は一営五十人とした。

湘軍は額兵の弊を救うために起こった。国藩は万衆一心・万人一気でなければ敵に当たれぬと言い、湘軍は礼を知り法を畏れ民を愛して日ごとに強くなり、鄂渚を掃蕩し皖を回復し、江蘇・浙江をめぐって金陵を攻め落とした。その兵威は南の交趾から北の承徳、西の天山・玉門にまで及んだ。国藩はまた李鴻章に淮軍を募らせ、湘軍の優れた者に教えさせ、捻軍を平定した。

編者はいう、文宗は国藩が水陸を兼ね統べるのを心配して布克慎を水営に赴かせた。武漢・黄州が復されて捷書が至ると、文宗は一介の書生がこれほどの奇功をと喜んだが、祁寯藻が匹夫が閭里で呼ばわって一万余人が従うのは国家の福ではありますまいと答えると、黙して顔色を変えた。同治初年、彭蘊章も尾大振わずの患いを説き湘軍の撤収と曾氏の権を削ることを論じた。僧格林沁が曹州で敗死すると穆宗は再び曾氏に軍を督させ、曾氏は裁撤した湘軍に代え淮軍と徐州の勇で数十戦に勝ち捻軍を衰えさせたが、なお言官は弾劾し、御史阿凌阿は驕慢を訴えた。曾氏は讒を憂え譏りを畏れ、封爵を返し散員として力を尽くしたいと願った。その奏に苗・回平定とあれば暮気の説は当たらない。悔いたときは遅く、郷里の人々はついに悟らなかった。惜しいことである。

年表

江忠源の楚勇に始まり曾国藩が湘軍陸師を編成するまでの経緯と、その営制を詳述する。道光二十四年、新寧の江忠源が郷里の子弟を編成したのが湖南団練の始まりで、咸豊元年には楚勇五百人を率いて境を出て功を立てた。咸豊二年冬、母の喪中の侍郎曾国藩が湖南の団練を命じられ、羅沢南・王鑫らの湘勇を統べ、重典によって会匪を除き「曾剃頭」と呼ばれた。三百六十人を一営とし戚継光の書に拠って制を定め、咸豊四年春三月、呉文鎔の敗死を受けて営制を改め、塔斉布ら八将に統べさせ水師と合わせ一万七千で東下した。営官・哨官・什長・長夫の編制、行軍と築塁の法を細かに記し、のち李鴻章の淮軍創設に及ぶ。

年表(4件)

この範囲の現代語訳全文について

この範囲の訳文は、Kindle版『現代語訳 清史紀事本末 2 雍正〜咸豊』として刊行しています。Kindle独占配信(KDPセレクト)の契約により、当サイトでは全文を掲載していません。Kindle Unlimitedの対象です。

修正履歴

  • 第1.0版(2026-09-27) 初版
© AI現代語訳推進委員会