清史紀事本末光緒帝の入継(光緒入継)

要約

光緒元年正月、帝は太和殿で即位した。醇親王奕譞の子で宣宗の孫、四歳のとき穆宗が崩じ、慈禧太后は幼少を立てて朝政を専断しようと、その日のうちに宮中へ入れ、懿旨で文宗顕皇帝の子として大統を承けさせた。穆宗のために嗣を立てぬのは本朝に無い奇局で中外の不平は囂しく、内閣侍読学士広安が宋の太宗の例を引き鉄券を立てられたいと上疏して申飭された。

二月、嘉順皇后阿魯特氏が崩じた。尚書崇綺の娘で、慧妃のことで太后の歓心を失い、帝が立つと以前の詔と符合しないと慟哭したので、太后は后の頬を打ち、わが子を害しておきながらなお皇太后になろうとするかと言った。后が食を絶ち内侍が奏聞すると、大行皇帝に随って去ればよいと言った。年二十二、諡して孝哲。この年、京師の大旱と決壊があり、文祥が卒し、翁同龢・夏同善が帝に読書を授けた。二年は直隷の大旱、福建の颶風、両宮への徽号加上。

三年二月、余杭の葛品連の死の一件で迴護したとして浙江巡撫楊昌濬と学政侍郎胡瑞潤を革職した。品連は病死だが、県令劉錫彤は反目する楊乃武が品連の妻畢氏と姦通し畢氏が鴆殺したと誣告し、厳刑で二人を服罪させた。浙江の人々が都察院に訴え、刑部が棺を検べると毒は無く、乃武と畢氏は釈放、審理官は革職・降調、県令は黒龍江に戍られた。五月、山西・河南の大旱に御史温忠翰が飢民の惨状を奏した。十月、沈桂芬がスペイン使臣とキューバ華工条款十六条を訂約した。

五年閏三月、吏部主事呉可読が薊州三義廟で自殺し、遺書で将来の大統の帰するところを定める懿旨を請うた。降調で言事できず、穆宗の奉安ののち陵寝のかたわらで尸諫に託した。王大臣らは継統が建儲に関わるとして議に加わらず、懿旨は大統を継ぐ者を穆宗毅皇帝の嗣子とすると下した。四月、丁宝楨の請いで四川の塩務を官運商銷に改めた。恩承・童華は弊少なく利多しと争奏したが、朝廷は宝楨に浮言に動かされるなと諭すにとどめた。六月、東郷県署理孫定揚が正税一両に五百文を加え、騒いだ民を叛逆と誣告して兵を請い、提督李有恒らが寨民数百人を妄殺したので、ともに斬監候とした。侍講王先謙が言路の流弊を奏して嘉納され、雷同付和を戒める諭に朝議は騒然となった。十月、越南に拠った李揚才が擒えられた。

六年八月、李鴻章の請いで陸路に電線を設けた。七年三月、慈安太后が崩じた。垂簾後は用人行政の権を慈禧太后に譲ったが、安得海の一件だけは堅く持して丁宝楨に現地で処刑させ、嫌隙が積もって晩年は韜晦した。年四十五、諡して孝貞。十一月、革職された提督李世忠を殺した。もと捻匪の渠魁で咸豊八年に天長で降り、勝保がその衆一万七千を豫勝営として滁州を守らせ塩で給し巨富をなした。安徽巡撫裕禄は富を羨んで交わり数十万を負ったが、面責を憤り、貢生を殴辱した件で罵られると斬った。八年、侍読温紹棠が朝に臨まぬ太后に勤政を懇願して申飭された。

九年正月、礼部右侍郎宝廷を革職した。敢言だが退く志を萌し、帰る舟で汪氏を買って妾としたと自ら弾劾した。二月、河南鎮平県の盗案が結了した。狡吏胡体安が張肯堂の家を劫掠し、孌童王樹文を身代わりに立て、県令馬翥は草々に案を定めた。臨刑の叫冤と父季福の対質で身元が知れたが、任愷は咎を恐れ、巡撫李鶴年は樹文に把風接賊の律を当てた。潘祖蔭が部に取り寄せ趙舒翹が実を得、祖蔭の変心にも争い、張亨嘉の陳述で案は正され、樹文は釈放、馬翥らは極辺に戍られ、鶴年以下は降調、体安は無事であった。張佩綸は判決の末尾に、大吏が人命を草菅とするより疆臣が朝廷を軽んずる兆しを開く患いこそ深いと書いた。五月、雲南報銷の案が結了し、周瑞清らは軍台に発遣、景廉・王文韶らは罰俸となった。十一月、御史劉恩溥が、宗室の載泰が賭博で旗民を殴り殺し屍が久しくさらされていると奏して埋葬を請い、譴責もなく摺は公布された。

十年、緊要な事件は軍機処が奕譞と会同して処理し、奕劻に総理各国事務衙門を管理させた。十月、劉錦棠が、新疆と甘粛は唇歯で分てば二十余州県が孤立するとして烏魯木斉を省治とするよう奏したので、甘粛新疆巡撫を新設し烏魯木斉都統を廃した。十一年、左宗棠が卒し、福建巡撫を台湾巡撫と改めた。十二年二月、太后が帝を率いて東陵に詣で、跪拝を要する礼節の書付を見て怒り地に投げたが、礼部尚書延煦が門外に跪いて顕皇帝在世の儀注によるべきだと争い、やむなく可とした。八月、御史朱一新が、李蓮英が奕譞の北洋巡閲に随ったのは唐の監軍の轍だと奏し、太后は怒って主事に降した。十三年八月、鄭州下汛十堡で黄河南岸が決壊し、水を被る者十五州県、賑済を待つ者百九十万人。十月、奕劻・孫毓汶がポルトガル使臣ロシャと中葡条約五十四款・専款三条を定めた。

十四年、頤和園の工事が竣工したが、十二月に貞度門の失火が太和門に延焼したので工事を停めさせた。十五年正月、赫葉那拉氏を后、他他拉氏を瑾嬪・珍嬪とした。二月、帝が親政したが、名ばかりで主権はなく、用人行政は太后が主持した。呉大澂が醇親王尊崇の典礼を議するよう請うたので、奕譞が光緒元年に佞人の治平・嘉靖の説を慮って具えた原奏を宣示し、邪説を杜いだ。頤和園には仏香閣や石舫、昆明湖に小汽船、園外に電気室を置き、太后は日夕芝居を聴き、写真を撮って観音に扮した。八月、天壇の祈年殿が落雷で焼けた。

十六年十一月、帝の本生父奕譞が薨じ、皇帝本生考と称し賢と諡し、載灃が王爵を承襲した。九月には呉兆泰の頤和園工事停止の請いが厳譴された。十七年、建寧府の蔣斯岱の訴えで梁玉瑜の贈賄が覆奏され、病死した王済光に全案を負わせ、玉瑜と沈茂勝は流罪、確証ある劉麒祥は罪を逃れた。同年、熱河の金丹道の楊悦春らが朝陽など諸州県を陥れたが剿平された。十八年、閻敬銘が卒した。三海の興修に款項を与えず眷顧を失い、遺疏も意に忤らって太子少保を賜るのみ、諡も張蔭桓の力説でようやく許された。

二十年十月、瑾貴妃・珍貴妃をともに貴人に降した。二妃の師文廷式が大考一等に抜擢されると、太后は帝が二妃ゆえに進めたと疑い、浮華を習うとして妃号を革め、廷杖を加え、兄志鋭を謫した。この年、日本と戦端が開かれ、各省に商人からの借款を命じ、太后六十の万寿は敗報と諫争で飾り立てを取りやめた。十二月、御史安維峻が李鴻章を参劾し、皇太后が政を返したのに皇上がなお牽制されては祖宗と天下に申しひらきができぬ、李蓮英が政事に干与するのは何事かと言い、革職・張家口流刑となり、大刀王五が護衛して費用を出した。

二十一年十月、汪鳴鑾・長麟を革職した。長麟は召対で、太后は穆宗には生母だが皇上には先帝の遺した妾にすぎぬと言い、鳴鑾も同じくしたので、離間に近いとして永く任用しないとされた。二十二年、強学書局の封禁ののち官書局を京師に設けた。五月、帝の生母の醇親王福晋赫葉那拉氏が薨じた。同年、太監寇連材を殺した。太后が政権を専らにし、廃立の志を蓄え、帝に博打や阿片を迫るのを憂えて跪いて諫めたが、狂人として叱り去られた。弟に授けた記録には、太后の驕奢逸楽と帝の孤独、半ば腐った御膳、叱責と鞭打ちに雷の音にも顔色を変える帝、甲午六月に帝が頤和園の工事を停め軍費に充てよと請い太后が怒って十余か月口をきかなかったとあった。のち十条の摺を上り、太后が政権を握られぬよう、円明園を修めて帝を幽閉されぬよう請い、死を懼れるなら摺は上げぬと答えて義に就いた。宋育仁は哭して官を棄てた。翌日、楊崇伊の弾劾で文廷式が革職された。

二十三年三月、貝勒載澍が太后の旨に忤らい、革爵のうえ八十板を打たれ永く監禁された。穆宗の病革まるとき遺詔で大統を継がせようとしたので太后は深く憎み、妻が妾の子を殺して詰責され訴えると、母に不孝として厳譴した。二十四年正月、厳修の請いで経済特科を設けて内政・外交・理財・経武・格物・考工の六事を課し、昭信股票を頒布し、京師大学堂を開き、武科を銃砲の試験に改めた。三月、剛毅の請いで諸局を廃し保甲を整頓した。四月、恭親王奕訢が卒して太廟に配享し、各省の書院を学堂に改めさせた。

年表

穆宗の崩御に際し、慈禧太后が四歳の醇親王奕譞の子を文宗の継嗣として立てた入継の一件と、その後の光緒朝前半の政事を年次に追って記す。光緒元年(1875年)の即位と嘉順皇后阿魯特氏の死に始まり、広安の上疏や光緒五年(1879年)の呉可読の尸諫など、穆宗のために嗣を立てなかったことへの異議が続いた。楊乃武の冤獄・東郷県の濫殺・雲南報銷・王樹文の盗案といった獄案、丁宝楨の塩務改革や新疆の建省、頤和園の造営と李蓮英の専横、光緒十五年(1889年)の親政後も実権が太后にあった実情を記す。日清の戦事のさなかに珍妃・瑾妃が貴人に降され、安維峻・寇連材・文廷式らが罰せられ、光緒二十四年(1898年)の経済特科・京師大学堂の設置までを扱う。

年表(24件)

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  • 第1.0版(2026-09-27) 初版
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