清史紀事本末通使と留学生の選派(通使及選派留学)

要約

光緒元年八月、郭嵩燾と許鈴身をイギリスへ出使させ、まもなく鈴身を日本へ改め、劉錫鴻を駐英副使とし、鈴身が直隷にとどまったので何如璋を日本の使者とした。同治六年の志剛・孫家穀、九年の崇厚の派遣は臨時であった。五月、総署が洋務の人材を蓄えることを請うて許され、諸使臣を各国に分駐させ交渉に当たらせた。

十一月、陳蘭斌と容閑を美・日・祕三国への出使とした。同治十一年に曾国藩・李鴻章の請いで幼童をアメリカへ遊学させ、二人が学生管理として駐在した。蘭斌らは華人十四万余、金山一帯に六万を調べて総領事を設け、古巴・秘魯にも領事を置いた。

二年八月、馬嘉理の一件の議定に使臣を派して惋惜の意を表す一条があり、総署が出使の経費を擬定した。十二月、李鴻章・沈葆楨が李鳳苞に福建船廠の学生三十名を率いさせ、英仏で製造と駕駛を学ばせた。三月、武弁卞長勝ら七人をドイツの武学院に遣わして軍械技術を講習させた。

三年、錫鴻をドイツへ改めて駐英副使を廃し、日本の横浜・神戸・長崎に理事を、新嘉坡に領事を設けた。四年以後、嵩燾にフランス公使を兼ねさせ、曾紀沢を英仏、李鳳苞をドイツ、崇厚をロシアへ遣わして伊犁の件を議させ、六年には紀沢に改約を議させた。七年、檀香山に領事を設け、鄭藻如を美・日・祕へ出使させて蘭斌を召し還し、副使の職を廃した。

十年以後も許景澄・劉瑞芬・張蔭桓・洪鈞・薛福成・崔国因・李経方・汪鳳藻・楊儒・龔照瑗・羅豊禄・黄遵憲・伍廷芳・呂海寰らを各国へ出使させた。十一年、イギリスが緬甸を滅ぼし境界の件が重大なので紀沢を召して諮問した。十三年、張之洞が小呂宋の華民のため総領事を請うたが許されなかった。

十七年正月、薛福成の請いで南洋の各島に領事を設けた。前年、丁汝昌の南洋巡歴で、領事の無い各地の華民約三十万が土人の虐待を訴えた。香港に正領事を設け、新嘉坡の領事を海門等処総領事と改めた。二十年十月、王之春をロシアへ赴かせ皇帝の喪を弔い新皇帝の即位を祝賀させた。

二十一年正月、海陸の軍が日本に敗れたので李鴻章に全権を仮して広島で和議させた。十二月、ロシア皇帝の戴冠の祝賀はもと王之春の予定だったが、駐京ロシア公使喀希尼が任に堪えるのは李中堂のみだと抗議したので鴻章を正使とした。実は鴻章を誘って中露密約を運ばせる狙いで、二十三年、張蔭桓をイギリスへ赴かせ女皇の即位六十年を祝賀させた際も、喀希尼はお忍びでイギリスへ行き蔭桓を招いて密約に反対させないようにした。

二十四年四月、同文館の学生を派し、各督撫に学生を選んで日本へ留学させるよう咨した。日本使臣矢野文雄が経費を出し二百名を限度と告げ、楊深秀が奏したのによる。八月、政変で黄遵憲が病と称して解任を請うたので李盛鐸を日本へ出使させ、十月、楊儒を海牙へ赴かせ紅十字会の件を会議させた。二十六年十二月、張百熙をイギリスへ赴かせ国君の喪を弔い新国君の即位を祝賀させた。二十七年四月、前年の拳匪の乱でドイツ公使克林徳が殺されたので醇親王載灃をドイツへ赴かせ謝罪させ、跪拝の礼を求められると聞いて国境に滞留したが、政府が公法に拠って争うとドイツ皇帝も融通をきかせた。杉山彬の件では那桐を日本へ遣わした。

六月、許台身を韓国へ出使させた。朝鮮が帝を称し国号を韓と改めたので朝議は絶交を主張したが、帝は韓も隣国で諸国と異ならぬとして拝謁を許した。七月、楊儒がロシアとの条約議定で威嚇と利誘に抗しきれず病を理由に休暇を請うたので、羅豊禄を転じてロシアへ出使させた。載灃はドイツで国書を捧呈ののち諸国へ赴こうとしたが、ドイツ皇帝が趣旨に背くとして贈り物を受けず、召し還された。十月、張徳彝をイギリスへ出使させ、自主独立した古巴の公使を兼ねさせ新条約を結ばせた。

二十八年、三国の請いにより許鈺・楊兆鋆・呉徳章を義・比・墺へ出使させた。十月、汪大燮を日本遊学生総監督とした。蔡鈞が自費生の振武学校入学に反対し学生代表は逮捕・護送帰国させられ、鈞は学生が康有為に唆され騒いだと電したが、日本の外務大臣は載振に人材を愛する人を総監督に充てよと言った。以後、取り締まりは厳しく留学界は多事となった。十二月、溥倫をアメリカ散魯伊斯城博覧会の正監督とし、黄開甲と柯爾楽を副とした。

二十九年七月、日本遊学生王璟芳に挙人出身を賞与し、十月、楊晟をオーストリアへ出使させた。

三十年、墨国と南斐洲のイギリス属地に総領事を設けた。日露が東三省を戦場とし政府が局外中立を宣告したので、東京留学生は恥じて同仇会を興し学生軍を組織して抵抗を願い出たが、政府は応ぜず代表を捕らえ、駐京日本公使に抑圧を請うた。

三十一年、海外の学生を試験して金邦平らに出身を賞し、毎年の常例となった。七月、周馥の請いでドイツ語学生十名をオーストリアで陸軍を学ばせた。各省に多く欧米へ遊学させ、劉世訓・汪大燮・李経邁らを諸国へ出使させた。十月、陸徴祥を専使として海牙平和会議に赴かせ、銭恂を副とした。会では各国代表が中国の法律の弊害と徐錫麟・秋瑾両件の連座の惨酷をそしり、領事裁判権の返還を拒んで中国を三等国に落とそうとした。徴祥は力争し、政府も一等国の扱いを各国に請い、すでに一等国なみに費用を分担しているとのフランス代表の答えに拠って声明した。会衆は中国の兵艦が平和を保ちがたいと譏り、武官代表丁士源の越権に戒飭を求めた。十一月、奕劻に宗室を選んで海外で武備を学ばせた。

三十二年以後も汪大燮を日斯巴尼亜皇帝の大婚祝賀に遣わし、雷補同・伍廷芳・陸徴祥・蔭昌らを諸国へ出使させ、西貢・河内・瓜哇に領事を増設し、遊学卒業生に出身と奨励を与えた。アメリカが賠償金を減らしたので唐紹儀に謝意を表させた。

年表

清朝が常駐の出使大臣を各国に置き、あわせて領事館を増設し、留学生を派遣していった経緯を記す。郭嵩燾・劉錫鴻・何如璋・陳蘭斌・容閑らの派遣に始まり、曾紀沢・薛福成・許景澄・伍廷芳らが英仏独露米日などに歴任し、金山・古巴・新嘉坡・檀香山・小呂宋など華民の集まる地に領事設置が議された。留学では福建船廠の学生を英仏へ、武弁をドイツへ送り、のち日本留学が盛んになって蔡鈞と学生の衝突から汪大燮が総監督となり、帰国留学生への進士・挙人賞与も常例化した。光緒元年(1875年)から光緒三十四年(1908年)に及ぶ。

年表(29件)

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  • 第1.0版(2026-09-27) 初版
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