清史紀事本末資政院の開設(開設資政院)

要約

宣統元年秋七月、資政院章程を頒行した。光緒三十二年、五大臣の帰国後に官制草案五十二条を編み、翌年八月十三日、群言を広く採るため増設せよとの諭が出た。のち院章十五条、この年さらに六十五条・附則二条を定めた。規定は各国議院の通則と食い違い、公論の精神に背き、文義も難解。

二年夏四月、八月二十日の召集を定め欽選議員名簿を頒布。皇室・王公、満漢・外藩の世爵、宗室覚羅、各部院の官、碩学通儒から選んだ。秋八月、曹鴻勛の病死で沈家本を副総裁とした。総裁は先に派された溥倫・孫家鼐。召集の諭は、資政院は両議院の基礎、立憲政体の精神、議員は成見を消し公心を奮って協賛と代議の責を尽くせと。

九月初一日に開院し、摂政王が臨んで訓詞を宣布。三時間半の十分の七は日程表外、十分の二は投票開票に費やされ、日程の議事は十分の一に満たず、沈林一が政府特派員を弁護し雷奮が滑稽に反駁した一件、労乃宣の発議に議員が表決宣告を待たず起立賛成した一件、特任股員選挙でモンゴル文字の三票を秘書官も通訳員も読めず文哲琿が読み、那桐が手を打ってモンゴル議員の秩序が紊乱した一件など、笑いぐさは一つならぬ。

冬十二月、会期三か月で議事終わらず十日延長し、十一日閉会。論者はいう、会議は数日おきに一度、開会は二、三時から五、六時、議案十余は盲従か未決、欽選と民選は二党のごとく鴻溝をなす、政府は院議を弁髦と軽んじ、可決の法を施行せず否決の法を施行し、議決した削減を行わず甲項の議決を乙項に流用し、院議を経ぬ一億円の外債に院は抗議しない、議員提出の議案は審査止まりや日程未載に終わり、連絡なく案件は棚上げされる、軍機大臣弾劾は憲法大綱を引く上諭に禁じられ、第二回弾劾案は十日で三変した、政府が二度議した借款と国会期限短縮に議院法・選挙法の草案を出さず、予算案も議決に付さず、院章改正・行政審判・会計検査・法の頒定も幣制・銀行・鉄路の質問案も議に及ばず、学務・墾務の章程に時間を費やした、と。

三年春二月、世続を総裁、李家駒を副総裁とし、世続の辞退は許されず。夏四月に第二回常会を召集、借款・予算の臨時会議の奏請は許されず。六月に院章を改訂。秋九月開院、礼親王世鐸が代臨。盛宣懐を弾劾し革職させ、内閣暫行章程の取り消し、親貴の国務大臣排除、憲法の協賛、憲法信条の頒布と太廟への誓い、革命党の政党改組、山東の請願八条、袁世凱の内閣総理大臣公選、院章改訂の頒布が従われた。冬十月、辮髪切断が容れられ、太陽暦改用は内閣に籌弁させ、十二月、李家駒が離職し許鼎霖を総裁とした。

年表

清末の立憲準備として設けられた資政院の開設から、その運営の実態と末期の活動までを追う。光緒三十二年の五大臣視察帰国後に草案が起こされ、宣統元年(1909年)に院章が頒行され、翌二年に溥倫・沈家本らを総裁・副総裁として議員が欽選され、九月に監国摂政王臨席のもと開院した。しかし会期・議事運営の粗放さ、欽選議員と民選議員の対立、政府が院の議決を顧みない現状など、当時の論者が数えあげた七点の弊が露わとなった。宣統三年(1911年)には世続・李家駒が総裁に立ち、資政院は盛宣懐の弾劾、親貴を国務大臣に充てぬこと、憲法信条の頒布、袁世凱の内閣総理大臣公選、断髪・太陽暦採用などを次々と奏請して容れられ、王朝終末期の政局の場となった。

年表(3件)
  • 末帝
  • 宣統元年(1909年)秋七月に資政院章程が頒行され、院の職権と議事規則が定まる
  • 宣統二年(1910年)欽選議員が頒布され、九月に開院して摂政王が訓詞を宣布し、十二月に閉会する
  • 宣統三年(1911年)資政院が盛宣懐を弾劾し憲法信条の頒布と袁世凱の内閣総理大臣公選を奏請する

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  • 第1.0版(2026-09-27) 初版
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